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解釈を巡って−3つの文章
(まる@「現代アニメ考」:1998年9-10月)

監督と作品と解釈と(1998/9/19)

 掲示板でお世話になっているルシファーさんの議論を受けてのもの。
 再び物語の終焉を巡って−掲示板でのエヴァ論争2−」にある「解釈を巡って」の書き換え。

アニメと監督

 エヴァが論じられる時、いろいろなところで庵野監督はインタヴューを受け、その発言が物議をかもしました。監督の発言が引かれ、エヴァが論じられました。ですが、監督がそのアニメについて話したからってどうなんでしょうか。アニメってば、その監督の意図に回収されてしまうほど小さいものではないのではないでしょうか。監督が思っている以上に、そして我々が監督の発言などを通してアニメを観る時以上に、アニメは豊穣なテクストでありましょう。なるほど我々はよく監督の言葉なんかを読んで、あああのアニメはそういう意味だったのかと、そこに一つの答えとしての「公式解釈」があるかのように考えて、それでそのアニメについては済ましてしまったりするのですが、そう簡単ではないでしょう。・・・このことを考えてみたいと思います。

アニメ以外と

 アニメ以外でもそうなのです。まずはアニメ以外の例をいくつか出してみましょう。なんでもいいんですけど、例えば、F.カフカの小説です。特に彼の短編なんかですが、そこでは「公式解釈」というただ一つの答えが成立しますでしょうか。言うまでもなく成立しません。また、例えば、J.J.ルソー。彼の『社会契約論』などを見てみても、なるほど教科書などでは単純明解にまとめられていますが、実際のそれは多様な解釈を許すテクストです。そこに出てくる「立法者」の解釈などは、まったくもって結論が出せるものではありません。もちろんこうしたテクストでは、カフカやルソーといった著者自身にとっても、その意味をきっちりと言い表せるかどうかというのは、はなはだ疑問であります。小説なんかについてはよく言われることですけれども、いったんそれが書かれ出すと、作者の手を離れていってしまうわけです。その登場人物が作者の思わぬ行動をしたりして、当初考えたのとは逆の方向にも進んでしまうことすらありえるのです。また評論なんかにしましても、言葉を紡いでいくと、作者としてはある意図を伝えようとして書かれたものであったとしても、ある言葉とある言葉との関係、そしてある文とある文との関係を探っていくと、作者が思っていたのとはズレたものとなってしまっていることがあります。そういうわけで作者の意図に基づく答えとしての「公式解釈」などというものはありえないのであります。
 エヴァみたいなアニメなんかはもっとそうなわけです。なにせ、アニメは言葉のみで進んでいくものではありません。そこにいろいろな角度から効果が施されたセル画があり、各キャラの声があり、音楽をはじめとした音がある。で、またそうしたものには数え切れないほどの人々が関わってくるわけです。アニメは監督の意志だけで作られるものではありません。たとえ監督が強固な意志で持って制作に取り組んでも、アニメが以上の性質を持つものである以上は、完成したものは監督の手を離れてしまっているに違いありません。

許容を巡る解釈の闘争へ

 というわけで、結局、なんらかのアニメを見ます時に、そこにありますのは、ただそのアニメだけなのであります。原作者がこう考えているから、とか、監督はこうこう言ってるぞ、とかいくら言ってみたところで無駄であります。原作者の意図を超えて出てきたアニメのみがそこにあります。いうなれば、うしろに頼ってはいけない、いや、頼ることは出来ないのです。アニメを観る時、うーんわからない。じゃ、監督はどう言っているのかなあとうしろに頭を働かせてしまってはアニメを観ることにはならないでしょう。監督の発言は監督という視聴者の一つの解釈以上の意味はもちえません。よって「公式解釈」いった、いわゆる”正解”は原理的にありえません。なんらの正解が無い状況で、ただいまここにあるアニメのみに依拠し、そのアニメをあれやこれやとこねくり回した挙げ句、なにが出てくるのか、が問題となるのです。
 むろん、だからといってなんでもありなのかといったらそういうわけではありません。いいかげんな解釈が許容されるわけではありません。例えば私は、宮台真司さんのエヴァ解釈を認めません。彼はちっともエヴァに即していないと思うからです。そうしたように、解釈を巡って闘争が生じ得ます。ただ一つの回答が無いところで、ではいかなる解釈が許容されるのか(「正さ」はないわけです。どこまで許容されるか、であります)、を巡る闘争は果てしなく行われることでありましょう。
 監督の発言などに頼るといった、解釈からの逃げ口上は許されるものではありません。どれだけ論理的に跡付けつつ、テクスト解釈が行えるか。恣意的な読みを除去して、いかに解釈を展開することが出来るか、こそが勝負であります。そうしたテクストとの格闘を通じて、私とアニメとのはざまにおいて、解釈という名の新たなテクストが成立するのであります。大上段から振りかぶってものを申しますならば、そのような私とアニメとの関係において成立した新たなテクストの陳列棚が、このHPなわけでありますが。



「解釈者」としての参入(1998/9/19)

 上の文章に対して。

「視聴者」?

 上に書きましたことから出てくるのは、すなわち視聴者の問題です。アニメを観る我々は視聴者なのです。ところで「視聴者」ってなんでしょうか。アニメをて、キャラのせりふや音楽などをという意味でしょうか。まあおそらくそんな感じでありましょう。
 ですがそれだけではなく「視聴者」にはもっと意味があると思います。「視聴者」はアニメ)視て、せりふや音楽など)聴く者なわけです。ちょいとへんてこな書き方をしてしまいましたが、つまり、「視聴者」はアニメの行き先()なわけです。つまりは「視聴者」=アニメの受け手、というわけです。

「監督→(アニメ)→視聴者」

 こんどは逆の方向から見てみましょう。「視聴者」ではなく、アニメを考えてみます。今述べた「視聴者」概念からしますと、アニメというのは<もの>になります。またへんてこな書き方をしますと、「アニメ視聴者」なわけです。ゆえにアニメは「」の矢印を通る<もの>、伝達される<もの>なのです。で、<もの>というのは製作者あってこその存在です。ですから、ここでは監督の実在が想定されています。アニメは監督の手によって「視聴者」のもとに送り届けられる<もの>、なのです。図にすると「監督→(アニメ)→視聴者」という構図となりましょう。監督などの誰かの意図を持った<もの>、そしてその意図を伝達する<もの>としてのアニメ。

「視聴者」の参入、「場」としてのア二メ

 ですが、アニメは<もの>には収まりがつきません。なぜかというと、上の文章に書いたようにアニメは監督の意図といった<もの>に回収されはしないからです。アニメは何かを伝達する手段には収まりがつかないからです。従って「監督→(アニメ)→視聴者」の構図は成立しないのであります。
 別にアニメに限ったことではないのですが、でもやはりアニメにはまだ多いと思います。上のような<もの>としてアニメをとらえる傾向が。ですが繰り返しますがアニメは監督の意図を伝えるような、監督の意図という意味をあらかじめ持っている<もの>ではないのです。なぜなら、アニメは「視聴者」の解釈という参入でもってはじめて意味が生成するのだから。そういうわけで、アニメは<もの>ではなく、「視聴者」の参入によって意味が生じる<場>であるといえましょう。
 ある「視聴者」はアニメのこの場面を観てこう考えて、こういう解釈を提出します。またある「視聴者」はアニメのその場面を観てそう考えて、そういう解釈を提出します。またある「視聴者」はアニメのあの場面を観てああ考えて、ああいう解釈を提出します。アニメという<場>に即している以上は、アニメという豊潤な<場>からはそうした様々な解釈が出てくるでしょう。それらの解釈はアニメの<場>への「視聴者」の参入があってこそなのです。参入あってこそ意味が生じうるわけで、「視聴者」の参入なくしてはアニメは意味を持ち得ず、アニメとして成り立たないのです。強く言うと、「視聴者」もまた作者として監督であるのです。解釈を通じて、アニメを作っているのです。いろんな「視聴者」の様々な解釈によってアニメはいろいろ、日々作られているのです。

「視聴者」から「解釈者」へ

 アニメを観る人は「視聴者」という呼ばれ方で、受け手の位置にいつもいました。また普通のTV番組や映画とは違って、アニメの場合はそれがお子様向けのものだという常識があり、あまり考えないただ受け手としての「視聴者」というのがあったと思います。
 ですが、「視聴者」には、またひとりの作り手として<場>に参入して解釈していくという「解釈者」としてのあり方があるわけです。<場>に参入してアニメに即して解釈を行うという「解釈者」。解釈作業を通じて意味を生成していく、またひとりの監督としての「解釈者」。アニメを観るものは単なる受け手ではない!ということを、「解釈者」という概念でもって、強く言っておきたいと思います。


回収されるアニメ(1998/10/12)

 「神様としての社会」への反発から

「場」としてのアニメ

 さて、私は『<場>としてのアニメ』というのを言いました。<場>であるからにはそこではいろいろなものごとが参入して交流しています。「解釈者」としての視聴者の参入は以前述べたごとくですが、それ以外にもいろいろと入り込んでいましょう。例えば、監督がそうですし、アニメーター、編集などの製作に携わっておられる方々もそうです。またもちろん声優さんなんかも入り込んでいるわけです。アニメを構成している物的な部分、セル画ですとか、その上にちりばめられた様々な表現方法なんかも当然<場>にありましょう。さらに、そうしたいろいろなものごとのバックにある、社会ですとか時代状況ですとかも<場>に大きな影響を与えていると思われます。まあいずれにしましても、いろんなものが交流しているわけです。

「回収」の危険性

 ですが、<場>としてのアニメを考えると同時に、私はアニメについての危険性を感じざるを得ませんでした。その危険性とは「回収」の危険性であります。アニメが<場>を構成するいくつかの要素に回収されてしまっている現実がそこにはあったからです。主に3つの要素にアニメは回収されてしまっているのではないかと思います。
 第一には、私がここで繰り返してきました「監督への回収」です。「エヴァは何だったか。それは庵野監督がインタヴューで述べているように・・・だったのである」といったように、アニメが監督のものとして理解される傾向です。そこでは、解釈によって様々な意味が生じうる豊穣な<場>としてのアニメが持つダイナミクスや面白さなどはすっかりと見失われます。この点に付いてはここでいろいろと述べてきました。
 第二には、「アニメーション評論の方法と態度」にもちょこっと述べた「理論への回収」です。その文章では「現代思想への押し付け」という書き方がされていると思います。エヴァでは父親母親との関係が出てきますが、そうするとすぐに精神分析が持ち出されてくるわけでした。もちろん私はそうした引用とかを全否定しません。私たちが今ここにいるまでに、いろいろな人々のたくさんの論考が積み重ねられているわけでありまして、そこから学ぶことも多々ありますから。また、私たちが解釈に向かう時にはまったき自由というのはありませんで、以前に読んだ本ですとかに影響されて向かうわけであります。ですから、解釈の時にオリジナリティなんかはないわけで、解釈というのは今までに接したいろんなものごとの引用の集積としてあるというのは確かなことです。
 ですが、エヴァ評論において見られましたのは、そういうのではなく、非常に単純かつ幼稚な、なんとか理論の当てはめにすぎないのでした。そこではエヴァは論じられること無く、エヴァを通してなんとか理論が述べられているにすぎないというくだらない評論ばっかだったのでした。まさしく理論にアニメが回収されてしまっていたのです。それに対する反発が私にはありました。この点に付いては、まああまり語る価値も無いので、以上で終わりにします。

神様としての社会

 で、第三の「回収」は「社会への回収」であります。昨今非常に多く見られる傾向です。アニメのみにとどまりません。
 例えば文学。小説なんかですが、小説がどのように読まれているか。栗原彬『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店)なんかは典型例だと思うのですが、まさしく小説は社会の反映です。「小説中のモノの配列に着眼」(P.75)することによって「モノの配列になって現れる」「作者の意図を超えた社会的なもの」(P.76)をとらえることが出来るとします。で、吉本ばななの小説なんかが若者社会をよく映し出すものとして取り上げられています。
 さて、吉本ばななとかはいいわけです。現代社会をよく反映していますから。ですが他方で、もはや現代社会を反映しない小説はさくっと切り捨てられます。川村湊『戦後文学を問う』(岩波書店)では、1960年代に書かれた高橋和巳『邪宗門』などは「現在では当時の観念的な風俗を描き出した小説というだけの意味しか持っていない」(P.49)とされています。そう、小説は時代風景を表出するだけの役割をしか負っていないのであります。ですからその時代が過ぎ去れば、もうその小説の意味は無くなります。で、時代遅れとして酷評されるのです。
 小説に限ってみてみました。もちろんこうした傾向がすべてではありませんが、最近では多い傾向だということは確かでありましょう。文化は社会の反映であります。これを象徴的に表現すると「神様としての社会」となると思います。社会は神様なのです。なんでも作り出してしまう。いろいろな文化を作っているのは社会という名の神様なのでした。よってまず何をおいても神様のことを思い、考えるのが先行します。神様=社会がかくのごとくであるから、小説はこうこうこうなっている、といった論調になるわけです。
 そういうわけで、アニメもこの神様が作っておられるのです。エヴァについてですと、神様が作ったという点で共通しているエヴァとオウム真理教事件とがさくっと繋がるのです。エヴァはオウムとは一致しないと私なんかは解釈しますけれど、神様の信奉者たちはそんなことには耳を貸しません。両者とも同じくらいの時期に神様がお作りになったものですから、違ったものであるはずが無いのであります。こうしてものの見事に「神様としての社会」へとアニメは回収されます。宮台真司さんたちはそういう議論でしたね。「神様としての社会」がアニメを作っているという強固な前提の下に彼の議論が組み立てられていることは以前の拙稿で、彼のエッセイに即しながら論じていますので、該当箇所を参考にしてください。また彼の場合はその上にエヴァを監督に回収させてしまって論じているわけで、二重の症状を呈しているのでやっかいでありますが。

「場」としてのアニメ、を再考する

 はじめに述べたごとく<場>にはいろいろなものごとが集まり、交流しています。ですから<場>の研究には様々なところからのアプローチが必要であります。アニメでしたら、監督へのインタヴューですとか、アニメ技術、効果ですとか、アニメキャラのセリフの分析ですとか、あともちろん社会学的な研究なんかですとか、こうしたことすべてがアニメ評論には求められましょう。
 しかし、往々にしてそうした研究はアニメを回収してしまっています。私は上に述べたごとく「監督への回収」「理論への回収」「社会への回収」の三つの回収が起こっていると述べてきました。いずれにしても、アニメを特定分野の研究へと閉じ込めてしまっている。研究自体が先行し、アニメはそれに従属してしまっているのです。
 私にはそうしたアニメの従属、「回収されるアニメ」についての強い反発があります。よって解釈する時に、アニメに即せ、といい、アニメを主にキャラクターの言葉を中心にして考えていくという偏りをあえてやっているわけです(拙稿「アニメーション評論の方法と態度−補遺−」参照)。従いまして、私はアニメ評論に、やれ社会学的な見地であるとか、やれなになに理論であるとか、やれ監督のインタヴューであるとかを導入するというのははなはだ否定的であります。が、全否定はしません。<場>に様々のものごとが入り込んでいる以上、そうした研究も有効でありましょう。ですが、そうした分析をやる方に向かって、ぜひともアニメを回収しないようにと、アニメの<場>としてのダイナミズムを打ち消すことの無いよう、強く言っておきたいと思います。
 




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