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アニメーション評論の方法と態度−語られざるエヴァ
(まる@「現代アニメ考」:1997年11月15日)
 新世紀エヴァンゲリオン(以下「エヴァ」)の成功により、アニメも周辺の地位から表舞台へと顔を見せるようになりました。それに従って、アニメも論じられるようになってきつつあります。しかし、私がエヴァについてまとめようと思って、先行するエヴァ論のアンソロジーを入手して、諸論文を検討してみたところ、エヴァを論じた論文に出会うことは出来ませんでした。なるほどエヴァについて触れられてはいるのです。しかしどれもエヴァを論じてはいなかったのでした。それは何故でしょうか。何故アニメは論じられていないのでしょうか。ここでは評論家の手によるエヴァ論を批判的に検討する中から、アニメ論について私が考えるところを明らかにしていきたいと思います。

 私がエヴァ論を読んでいく中で気になったことが二点あります。一つは「現代思想の押し付け」という点であり、もう一つの点は「アニメは誰が作り出すか」というものです。私が参照したエヴァ論のアンソロジー『エヴァンゲリオン快楽原則』(第三書館,1997)を中心にそれらについて見てみることにしましょう。
 まずは第一の「現代思想の押し付け」です。例えばその本の前書きである五十嵐太郎「サンプリング・エヴァンゲリオン」がいい例です。5行ほど読んだところで後ろの引用文献一覧を見てみたところ、やっぱりありますR.バルト『テクストの快楽』(笑)。で、元に戻って再び読んでみると、やっぱりバルト一色といった感じでした。バルトが偉大な思想家であり、文芸批評などに多大の影響力があることは多少は知っていますが、しかしこれほどまでに露骨にかつ極めて単純にバルトの議論をエヴァにはめ込んでしまわなくてもいいでしょう。また香山リカ「「他者の語らい」の中の人たち」(この表題の見ただけで内容が見え見えです)を読んでも、そこにエヴァはありません。ただ偉大なるJ.ラカンの姿がそこにあるだけです。誰もが「他者との語らい」の中でしか生きられないという事実がこれほどに語られていることこそがエヴァの最大の衝撃である・・・まあその通りでありますが、でもベタベタにラカンなんですよね。澤野雅樹「左利きの小さな戦い−EVAに乗る者たち」とかも不毛ですね。よくもこんな文章を恥ずかしげもなく書けるもんだなあと半ばあきれてしまいますが、これ以上「現代思想の押し付け」パターンの論文を取り上げても不毛ですから、次へ行くことにしましょう。
 第二に「アニメは誰が作り出すか」という大きな問題があります。さて、エヴァは誰が作り出したのでしょうか。監督である庵野秀明でしょうか。・・・違います。では、GAINAXの皆さんでしょうか。・・・違います。では誰が作ったのか。ここに宮崎哲弥さんや島田敬三さんや宮台真司さんらの議論のポイントがあります。お三人とも「誰が作り出すか」について明言は避けていますし、それぞれの論は違っているのですが、あれこれと読んでみますと「エヴァは社会が作り出したものだ」としておられるというところでは共通しているようです。そして社会の中でもその支持基盤となった若者社会がエヴァの製作者の位置に置かれ、論じられているようです。宮崎哲弥さんや島田敬三さんなどはここから安直に、同じく若者が引き付けられて支えていったオウム真理教事件とエヴァ現象とを同一視して、エヴァからズレていって大笑いの議論をやってしまっています。エヴァがオウムとは違っていることは明らかでありまして、例えば夏の映画でシンジはゼーレの人類補完計画に反したわけでした。そういうのをどう説明するつもりでしょうか。
 ここでは宮台真司さんの議論を挙げたいと思います。この第二の論調の中でなんだかんだ言って取り上げるのに値する議論をしているのは彼だけだからです。宮台さんの主張はこの際脇に置いておきます。彼がどのような議論の運び方をしているか、を見ましょう。宮台真司「シンクロ率の低い生 少年少女の動きをしばる「現実は重い」という感覚」はまず女子高生の手紙から論を始め、90年代に入って小室ファミリーから「たまごっち」まで若者達のブームが大きくなっているけれども、その中でもエヴァブームは空前のものだとします。そして「大規模なブームの背後には時代的な共通感覚が見いだせる」とします。つまりエヴァをブームとして大きく作り上げていったのは「時代的な共通感覚」なわけですが、「共通感覚」を形成するのは言うまでもなく社会であり、「時代的な」ということですから社会の中でも若者社会ですね。そうした若者社会がエヴァを支えていったんだとされるわけです。若者社会が作り出したものとしてのエヴァ、という捉え方がここに見受けられます。そしてエヴァを論じていくのですが、どこからエヴァを論ずるのか。彼は香山リカさんの議論を引用した後に、「アニメに逃げ込んでいるだけじゃなく、現実に帰れ」という庵野秀明のラジオでの発言を取り上げ、「香山が批判するのは、これだ」と言って自説を展開していきます。宮台さんは香山さんを引用する前にエヴァについてまとめているのですが、そのまとめと彼の自説とは繋がっていません。彼の論はあくまで庵野の「現実に帰れ」と繋がっています。ところでなんでエヴァを論じるのに庵野秀明の発言を取り上げるのでしょうか。監督の発言は外部の一資料にすぎないのであって、エヴァを論じようとするならばエヴァのテクストに即さなくてはならないのは当然のことです。しかし宮台さんはちっとも即していません。私はエヴァについて拙い頭で色々と考えてみたのですが、エヴァを論じるんだったらやはりシンジ、アスカ、レイの「ひとりはイヤ」、そして「では、あなたは何故、ココにいるの?」というのと、それを受けての「ただ逢いたかったんだ。もう一度」という言葉を最低限は取り上げないといけないと思います。ですが、宮台さんはこうしたエヴァ中の言葉には目を向けずに「現実に帰れ」だけに注目するのです。しかも庵野の「現実に帰れ」についても、「現実」を「現実世界」と一方的に捉えて論じています。しかしエヴァの「現実」は「現実世界」でしょうか。思いますに、庵野の言う「現実」を解するには、エヴァで「ココ」としてカタカナ表記がされてわざわざ強調されている単語を無視してはいけないのではないでしょうか。言葉の定義は色々とありうるわけで、その言葉が使用される文脈に沿って定義されなければいけないのであり、「現実」といってもそれは「現実世界」とは直結せずに、エヴァに即して読み取らねばなりません。エヴァのどこをどう読めば「現実」=「現実世界」となるのでしょうか。私としてはエヴァの「現実」は「関係」として読むのが妥当であると思います(拙稿「エヴァ−「ココ」という「現実」の中で−」参照)。このように宮台論文の問題点をいろいろ挙げていくと、やはり間違いの原因は、エヴァを社会が作り出したものとして論じてしまったことに帰せましょう。エヴァはエヴァとして読まれねばならないのです。
 さて、このように「現代思想の押し付け」と「アニメは誰が作り出すか」=「若者社会が作り出したものとしてのアニメ」という2点に分けて、巷のエヴァ論の問題点をまとめてみました。ではこうした問題点を見た上で、アニメ評論はどうあるべきか。・・・というと大袈裟ですが、こういう風にアニメについて話していけたらいいなあと思うポイントを「方法」と「態度」との2つに分けて挙げておきたいと思います。
 まず第一に「方法」ですが、それは今まで繰り返してきましたように「アニメに即すこと」です。上述したエヴァ論の問題の原因にはやはりエヴァに即していない、という点がありました。安直に現代思想に頼るのではなく、また社会にすべて帰するのではなく、アニメを論じていくことが望まれましょう。私としては実践しているつもりでありまして、「ナデシコ総論」はナデシコに登場するエリナの一言「素敵な自分勝手ってとこかしらね」をキーワードにして、最終話でのフクベ・ジン提督の復活を、最終話でも復活しなかったダイゴウジ・ガイとの対比で取り上げて「殉死」「難死」としてまとめました。「難死」は小田実さんの論文で出てくる単語ですが、概念の借用にとどめ、ナデシコの文脈でナデシコを論じたつもりでいます。また「エヴァ」では宮台さんの強調する「現実」を「ココ」というエヴァ自体の言葉から「関係」と読み替えて、人と関係を取ることの出来ない少年が関係をとっていく物語としてエヴァを読んでみましたし、また「A.T.フィールド」についても夏の映画でのセリフや「関係」からエヴァにおける「死」を「関係の断絶」として捉えるなどして考えてみました。自分でも不満なところが多いですし、文章力もあまりなく稚拙な文体ですけれども、これからも「アニメに即すこと」は貫いていきたいと思っています。
 第二は「アニメを他のものとの同一水平線上において捉える」という「態度」です。この文章ではエヴァ論を書いている知識人の皆さんに対して、やれ現代思想の押し付けだとか、やれアニメに即してないぞ、などと述べてきたのですが、しかし考えてみれば「アニメに即すこと」などというテクストに即して批評する方法は現代思想の方から出てきたものです。また宮台さんや香山さんなどの他の論文(テレクラ少女についてのものとか、子供ものとか)を読むと「今の若者はなってない!」などというばかげた論調に抗して、テレクラ少女達などと実際に会って話をしたりして少年少女達に即したものです。そう「第一にアニメに即すという方法を大事にしよう」などと私は先程述べたのですが、彼らは自分の専門分野では対象に「即して」いるのです。それがエヴァについてとなるとコケるのです。なぜでしょうか。そこにはやはり「所詮はアニメだから」といった無意識が働いているからであろうと思われます。私はこうした風潮は否定したいと思います。アニメは自分の専門の仕事と同レベルの取り扱いをするに足るテクストだと思っているからです。例えばエヴァほど「関係」について考察したものが他にあるでしょうか。またナデシコほど「戦争」(というと意味が狭まってしまいますが)を取り上げたものが他にあるでしょうか。
 もちろんアニメだけを見てればいいのだとは思ってません。私の言いたいのは「他のものとアニメとを同一水平線上で捉える」という「態度」でして、小説やら評論やらテレビやらマンガやらも当然重要視しているわけです。アニメ以外のものも重要視した上で、同じレベルの土俵の上でそれらを交錯させつつ捉えよう、と考えているのです。ちょっと前の時代でしたら、カール・マルクスを読んでおけばすべてOKでした。有名古典文学を読んでおけばカンペキでした。しかし今日ではアニメ等の、従来からの視点からすると周辺的なところから非常に面白いものが出てきています。マルクスや文学に優るとも劣らないものが出てきているのです。
 小説やら評論やらマンガやら、現代の文化はいろいろと異なったものがたくさんあります。そうした中で、マルクス万歳!とか古典文学以外認めん!とか言って、なんらかの一つのものに決定してしまうのでなく、いろいろなものを同一水平線上で非決定的に取り扱いたいと思うのです。そこでは、例えばマルクス『共産主義者宣言』などに見られるツリー型の組織論が、「機動戦艦ナデシコ」におけるリゾーム型の組織論と同等に対峙され、捉えられます。また例えば、他者との関係を巡って「エヴァ」といろんな文学とが同レベルで取り上げられるのです。そのようにして、現代思想や社会などから一方的に勝手にアニメを見ていくような愚かさを避けたい、そして同一水平線上におけるアニメを含んだいろいろなものの交錯の中から、自分の考えを導き出していきたいわけです。

 以上、従来のエヴァ論の批判を通して、「方法」「態度」についてまとめてきました。もちろんこうした批判は我が身に帰ってくるのでありまして、例えばお前のウテナに対する「方法」「態度」はなんなんだ!という批判は当然あるでしょうし、私としてみましてもウテナを毛嫌いせずに見なければならないと思っております。そんな感じで不手際も多いでしょうが、今後ともここに述べてきたような「方法」「態度」でアニメを見、「現代アニメ考」を作っていきたいと思います。また、最後になりましたが、更新も不定期かついいかげんで、ほそぼそと経営しているこんな拙いホームページをご覧になっていただいている訪問者の方々への感謝の意を表わしつつ、終わりとさせていただきたいと思います(結婚式のスピーチのような^^;;)。




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