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回収されるエヴァ−批評のあり方を巡って
(まる@「現代アニメ考」:1999年5月30日)
はじめに−3つの回収−

 新世紀エヴァンゲリオン(以下「エヴァ」)の成功により、エヴァのようなアニメも周辺の地位から表舞台へと顔を見せるようになりました。それに従って、エヴァも論じられるようになってきつつあります。しかし、私がエヴァについてまとめようと思って、先行するエヴァ論のアンソロジーを入手して、諸論文を検討してみたところ、エヴァを論じた論文に出会うことは出来ませんでした。なるほどエヴァについて触れられてはいるのです。しかしどれもエヴァを論じてはいなかったのでした。それは何故でしょうか。何故エヴァは論じられていないのでしょうか。ここではそうした評論家の手によるエヴァ論について、3つの回収が起きてしまっているという点から、批判的に検討してみたいと思います。

「○○思想」への回収

 まず問題としたいのは「○○思想」への回収です。エヴァが論じられる際に、論じられるのはエヴァではないのです。エヴァを使って「○○思想」を語る、という論調が見られるのです。
 もちろん、エヴァを考えるときに、何かを導きの糸にする、というのはあってもいいことだと思います。私たちが今ここにいるまでに、いろいろな人々のたくさんの論考が積み重ねられているわけでありまして、そこから学ぶことも多々ありますから。しかし、エヴァの論調を見てみると、どうもそうしたところには留まらないのです。まさしく回収としか呼び得ないような状況があるのです。私が参照したエヴァ論のアンソロジー『エヴァンゲリオン快楽原則』(1997年,第三書館)において、例えばその本の前書きである五十嵐太郎「サンプリング・エヴァンゲリオン」がいい例です。5行ほど読んだところで後ろの引用文献一覧を見てみたところ、やっぱりありますR.バルト『テクストの快楽』(笑)。で、元に戻って再び読んでみると、やっぱりバルト一色といった感じでした。バルトが偉大な思想家であり、文芸批評などに多大の影響力があることは多少は知っていますが、しかしこれほどまでに露骨にかつ極めて単純にバルトの議論をエヴァにはめ込んでしまわなくてもいいでしょう。また香山リカ「「他者の語らい」の中の人たち」(この表題の見ただけで内容が見え見えです)を読んでも、そこにエヴァはありません。ただ偉大なるJ.ラカンの姿がそこにあるだけです。誰もが「他者との語らい」の中でしか生きられないという事実がこれほどに語られていることこそがエヴァの最大の衝撃である・・・まあその通りでありますが、でもベタベタにラカンなんですよね。澤野雅樹「左利きの小さな戦い−EVAに乗る者たち」とかも不毛ですね。
 こうした方々はいったいどれだけエヴァを見たのでしょうか。いや、そういう問いは止めるべきでしょう。いったいエヴァを見たのかと問わねばなりません。いずれも、その文章にエヴァの姿は無かったからです。「○○思想」からの引用しか無い。もちろん、私たちが解釈に向かう時にはまったき自由というのはありませんで、以前に読んだ本ですとかに影響されて向かうわけであります。ですから、解釈の時にオリジナリティなんかはないわけで、解釈というのは今までに接したいろんなものごとの引用の集積としてあるというのは確かなことです。が、エヴァ評論において見られましたのは、そういうのではなく、非常に単純かつ幼稚な「○○思想」の当てはめにすぎないのでした。そこではエヴァは論じられること無く、エヴァを通してなんとか思想が述べられているにすぎないという評論が多かったのでした。まさしく思想にアニメが回収されてしまっていたのです。

監督への回収

 さて、次に挙げる回収は、アニメの作者とされる監督への回収であります。なんでも構いません。そこらへんにあるエヴァについて言及した文章を見てください。おそらく、それらのうちの多くに監督のインタヴューが載っているでしょう。で、それをもとにしてエヴァが論じられています。ですが、監督がそのアニメについて話したからってどうなんでしょうか。アニメってば、その監督の意図に回収されてしまうほど小さいものではないのではないでしょうか。監督が思っている以上に、そして我々が監督の発言などを通してアニメを観る時以上に、アニメは豊穣なテクストでありましょう。なるほど我々はよく監督の言葉なんかを読んで、ああ、あのアニメはそういう意味だったのかと、そこに一つの答えとしての公式解釈があるかのように考えて、それでそのアニメについては済ましてしまったりするのですが、そう簡単ではないでしょう。
 アニメ以外でもそうなのです。まずはアニメ以外の例をいくつか出してみましょう。なんでもいいんですけど、例えば、F.カフカの小説です。特に彼の短編なんかですが、そこで作者の意図を背景としたただ一つの公式解釈みたいのが成立しますでしょうか。言うまでもなく成立しません。また、例えば、J.J.ルソー。彼の『社会契約論』などを見てみても、なるほど教科書などでは単純明解にまとめられていますが、実際のそれは多様な解釈を許すテクストです。そこに出てくる「立法者」の解釈などは、まったくもって結論が出せるものではありません。もちろんこうしたテクストでは、カフカやルソーといった著者自身にとっても、その意味をきっちりと言い表せるかどうかというのは、はなはだ疑問であります。小説なんかについてはよく言われることですけれども、いったんそれが書かれ出すと、作者の手を離れていってしまうわけです。その登場人物が作者の思わぬ行動をしたりして、当初考えたのとは逆の方向にも進んでしまうことすらありえるのです。また評論なんかにしましても、言葉を紡いでいくと、作者としてはある意図を伝えようとして書かれたものであったとしても、ある言葉とある言葉との関係、そしてある文とある文との関係を探っていくと、作者が思っていたのとはズレたものとなってしまっていることがあります。そういうわけで作者の意図に基づく答えとしての公式解釈などというものはありえないのであります。
 エヴァみたいなアニメなんかはもっとそうなわけです。なにせ、アニメは言葉のみで進んでいくものではありません。そこにいろいろな角度から効果が施されたセル画があり、各キャラの声があり、音楽をはじめとした音がある。で、またそうしたものには数え切れないほどの人々が関わってくるわけです。アニメは監督の意志だけで作られるものではありません。たとえ監督が強固な意志でもって制作に取り組んでも、アニメが以上の性質を持つものである以上は、完成したものは監督の手を離れてしまっているに違いありません。
 しかし、ちまたのアニメ評論では「エヴァは何だったか。それは庵野監督がインタヴューで述べているように・・・だったのである」といったように、アニメが監督のものとして理解される=回収されているばかりでした。そこでは、解釈によって様々な意味が生じうるアニメが持つダイナミクスや面白さなどはすっかりと見失われてしまったのです。

社会への回収

 最後の3つめの回収は、社会への回収です。昨今非常に多く見られる傾向です。アニメのみにとどまりません。
 例えば文学。小説なんかですが、小説がどのように読まれているか。栗原彬『人生のドラマトゥルギー』(岩波書店)なんかは典型例だと思うのですが、まさしく小説は社会の反映です。「小説中のモノの配列に着眼」(P.75)することによって「モノの配列になって現れる」「作者の意図を超えた社会的なもの」(P.76)をとらえることが出来るとします。で、吉本ばななの小説なんかが若者社会をよく映し出すものとして取り上げられています。
 さて、吉本ばななとかはいいわけです。現代社会をよく反映していますから。ですが他方で、もはや現代社会を反映しない小説はさくっと切り捨てられます。川村湊『戦後文学を問う』(岩波書店)では、1960年代に書かれた高橋和巳『邪宗門』などは「現在では当時の観念的な風俗を描き出した小説というだけの意味しか持っていない」(P.49)とされています。そう、小説は時代風景を表出するだけの役割をしか負っていないのであります。ですからその時代が過ぎ去れば、もうその小説の意味は時代を映す鏡としてしかなくなります。で、その小説のもつ面白さとかなんかは軽視されるわけです。
 小説に限って見てみました。もちろんこうした傾向がすべてではありませんが、最近では多い傾向だということは確かでありましょう。文化は社会の反映であります。これを象徴的に表現すると「神様としての社会」となると思います。社会は神様なのです。なんでも作り出してしまう。いろいろな文化を作っているのは社会という名の神様なのでした。よってまず何をおいても神様のことを思い、考えるのが先行します。神様=社会がかくのごとくであるから、小説はこうこうこうなっている、といった論調になるわけです。
 そういうわけで、アニメもこの神様が作っておられるのです。エヴァについてですと、神様が作ったという点で共通しているエヴァとオウム真理教事件とがさくっと繋がるのです。エヴァはオウムとは一致しないと私なんかは解釈しますけれど、神様の信奉者たちはそんなことには耳を貸しません。両者とも同じくらいの時期に神様がお作りになったものですから、違ったものであるはずが無いのであります。こうしてものの見事に「神様としての社会」へとアニメは回収されます。
 ここでは宮台真司さんの議論を挙げたいと思います。宮台さんの議論は、2つめの「監督への回収」もしてしまっていて2重の回収を起こしていると思われます。宮台さんの主張はこの際脇に置いておきます。彼がどのような議論の運び方をしているか、を見ましょう。宮台真司「シンクロ率の低い生 少年少女の動きをしばる「現実は重い」という感覚」(五十嵐編,前掲書所収)はまず女子高生の手紙から論を始め、90年代に入って小室ファミリーから「たまごっち」まで若者達のブームが大きくなっているけれども、その中でもエヴァブームは空前のものだとします。そして「大規模なブームの背後には時代的な共通感覚が見いだせる」とします。つまりエヴァをブームとして大きく作り上げていったのは「時代的な共通感覚」なわけですが、「共通感覚」を形成するのは言うまでもなく社会であり、「時代的な」ということですから社会の中でも若者社会ですね。そうした若者社会がエヴァを支えていったんだとされるわけです。社会が作り出したものとしてのエヴァ、という捉え方がここに見受けられます。そしてエヴァを論じていくのですが、どこからエヴァを論ずるのか。彼は香山リカさんの議論を引用した後に、「アニメに逃げ込んでいるだけじゃなく、現実に帰れ」という庵野秀明のラジオでの発言を取り上げ、「香山が批判するのは、これだ」と言って自説を展開していきます。
 さて、宮台さんは香山さんを引用する前にエヴァについてまとめているのですが、そのまとめと彼の自説とは繋がっていません。彼の論はあくまで庵野の「現実に帰れ」と繋がっています。ところでなんでエヴァを論じるのに庵野秀明の発言を取り上げるのでしょうか。監督の発言は外部の一資料にすぎないのであって、エヴァを論じようとするならばエヴァのテクストに即さなくてはならないのは当然のことです。しかし宮台さんはちっとも即していません。私はエヴァについて拙い頭で色々と考えてみたのですが、エヴァを論じるんだったらやはりシンジ、アスカ、レイの「ひとりはイヤ」、そして「では、あなたは何故、ココにいるの?」というのと、それを受けての「ただ逢いたかったんだ。もう一度」という言葉を最低限は取り上げないといけないと思います。ですが、宮台さんはこうしたエヴァ中の言葉には目を向けずに「現実に帰れ」だけに注目するのです。これは2つめに挙げた「監督への回収」以外の何ものでもありません。
 しかも庵野の「現実に帰れ」についても、「現実」を「現実世界」(ここで言う「社会」)と一方的に捉えて論じています。しかしこの「現実」は「現実世界」でしょうか。思いますに、庵野の言う「現実」を解するには、エヴァで「ココ」としてカタカナ表記がされてわざわざ強調されている単語を無視してはいけないのではないでしょうか(前項「監督への回収」の視点からしますならば、監督の発言は別段取り上げずともよいのですが、本項では「社会への回収」が問題ですから、ここでは宮台さんの議論に一応乗り、庵野監督が言った「現実」をとらえ直します)。言葉の定義は色々とありうるわけで、その言葉が使用される文脈に沿って定義されなければいけないのであり、「現実」といってもそれは「現実世界」とは直結せずに、エヴァに即して読み取らねばなりません。エヴァのどこをどう読めば「現実」=「現実世界」となるのでしょうか。私としてはエヴァの「現実」は「関係」として読むのが妥当であると思います。エヴァを社会が創り出したものだとする強固な前提からは、現実=「現実世界」=「社会」とすぐ直結せざるを得ないでしょう。が、エヴァの画像やら言葉やらに即して考えてみれば、そうではないのです。まさしく彼がやってしまったのは「社会への回収」に他なりますまい。

回収を超えて

 さて、ちまたのエヴァ批評に対し、「○○思想への回収」「監督への回収」「社会への回収」の3つの回収をしてしまっていると述べてまいりました。では、回収に取って代わるエヴァ批評とはどのようなものであるのか。一言で言いまして、そうしたものとして私が考えているのは、エヴァに即して解釈を行っていく批評であります。
 言っていることは単純なことであります。背景に頼ることなく、エヴァに誠実であれ、ということです。背景と申しますのは、ここで挙げた「○○思想」であり「監督」であり「社会」であります。結局、エヴァを見ます時に、そこにありますのは、ただエヴァだけなのであります。「○○思想」に依拠するならばー、とか、監督がこう言ってるからー、とか、現代の社会状況に鑑みてー、とかいくら言ってみたところで無駄であります。これまで確認してきましたように、エヴァは「○○思想」に必ずしも当てはまっちゃうわけではないでしょう。監督の発言はそれほどの意味はもちえないでしょう。エヴァは社会を反映する鏡には留まらないでしょう。まずは、ただエヴァのみがそこにあるのです。いうなれば、背景に頼ってはいけない、いや、頼ることは出来ないのです。アニメを観る時、うーんわからない。じゃ、「○○思想」に頼ってみよう、とか、監督はどう言っているのかなあ、とか、今の社会は・・・とか、とにもかくにも背景に頭を働かせてしまって、そうした”答案解説”からエヴァという問題についての”模範解答”を求めてしまうようではだめなのです。なんらの”解答”が無い状況で、ただいまここにあるエヴァのみに依拠し、エヴァをあれやこれやとこねくり回した挙げ句、なにが出てくるのか、が問題となるのです。
 むろん、だからといってなんでもありなのかといったらそういうわけではありません。いいかげんな解釈が許容されるわけではありません。上に挙げたように、私は、宮台真司さんのエヴァ解釈を認めません。彼はちっともエヴァに即していないと思うからです。そうしたように、解釈を巡って闘争が生じ得ます。なんらかの”答案解説”からの”模範解答”が無い中で、ではいかなる解釈が許容されるのか(「正さ」はないわけです。どこまで「許容」されるか、であります)、を巡る闘争は果てしなく行われることでありましょう。どれだけ論理的に跡付けつつ、テクスト解釈が行えるか、いかに解釈を展開することが出来るか、こそが勝負であります。そうしたテクストとの格闘を通じて、解釈者とアニメとのはざまにおいて、解釈という名の新たなテクストが成立するのであります。

おわりに−3つの回収という現状から−

 さて、最後でエヴァ解釈のあり方みたいのを述べましたが、これは一つの極論であります。だって、エヴァはいきなりどかーんと出てきたわけではないからです。おそらく、今までのいろいろな考え(「○○思想」とか)を踏まえていると解釈できますでしょうし、監督の存在もある程度までは軽視出来ないでしょうし、社会の中から出てきたもので社会内の人々の支持を受けたわけであって、社会状況を照らし出すものとして捉えることも可能ではありましょうからです。
 しかし、「3つの”回収”」と言ってきたことに留意してください。「○○思想」からの、「監督」からの、「社会」からのエヴァ批評においては、エヴァの場面とか碇シンジの発言とか各キャラのやりあいとかについて述べられることが少ないわけなのです。そうしたことについては論じられないわけです。「○○思想」「監督」「社会」こそがまずあり、そうした3つにエヴァが回収されているというのがエヴァ批評の現状であるように思います。
 私にはそうしたエヴァの従属、「回収されるエヴァ」についての強い反発があります。従いまして、私はエヴァ批評に、やれ○○思想であるとか、やれ監督のインタヴューであるとか、やれ社会学的な見地であるとかを導入するというのははなはだ否定的であります。全否定は出来ませんので否定しませんけど。ただ、そうした批評はエヴァを亡きものにし、「○○思想」「監督」「社会」にエヴァを押し込んでしまいがちなのです。回収してしまうのです。最後にこのことを強調しておきたいと思います。




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