直線上に配置
希望の発見−他者と自分とのはざまで−
(まる@「現代アニメ考」:1999年3月25日)
はじめに−「ラストシーン」−

 ここでは、劇場版エヴァンゲリオン「THE END OF EVANGELION」のラストシーンを分析してみます。

 さて、「ラストシーン」と言いましたが、劇場版エヴァは最後の最後に「THE END OF EVANGELION ONE MORE FINAL: I need you.」というテロップが出ましたね。ちなみにフィルムブックでは110ページにあります。そのテロップ以降を「ラストシーン」とします。
 んで、ラストシーン分析に入るのですが、やり方としましては、劇場版エヴァからラストシーンに迫ります。って、当たり前ですけど。後でちゃんと見ますが、例えばラストでは首を絞めるといったシーンがあります。これにつきましては、それまでの劇場版エヴァにおいて、首を絞めるというのはどういうことだったか、っていうのを踏まえて考えていきたい、というわけです。まずそのことを述べておきます。
 そしてラストシーン分析というここでの議論に関連して、特に劇場版の「まごころを、君に」を詳しく見ていくことにします。「Air」の方は、適宜関連箇所を参照するにとどめます。

他者の発見1−”モノ”から”どうにもならない他者”へ−

 さて、一言で言いまして、エヴァのシンジは人と「関係」をとることが出来ていません。さらに「関係」がどういうことであるかわかっていないようです。またそれだけではなく、「関係」を結ぶべき「他者」のことを理解していないのでした。
 まず、シンジにとって他者とはモノのことでした。映画の最初の衝撃的なシーンを想起してください。アスカをオナペット(爆)にしているシンジがそこにはいます。まさにシンジにとってアスカはまさにモノですよね。「オカズ」(アスカ)にしちゃっているわけでありますから。
 映画の後半部に、シンジがアスカに対して「ねぇ。僕を助けてよ」と迫るシーンがあります。ここでもシンジにとってのアスカはモノです。自分を助けてくれるべきモノになっているわけです。それは、アスカがするどく指摘するように、「自分しかココにいない」状態です。他者と関係を取り結ぶべき「ココ」におきまして、シンジ自身しかいない。そうです、シンジは他者を自分に引き付けて、自身に都合のよいモノとして回収してしまっていますから、自分以外の人間を経験することが無いわけで、一人きりなのです。
 しかし、当たり前ですが、他者とは自分自身とは別個に存在しています。ですから、自分の考え通りには動いてくれず、思うように関係をとってはくれません。今挙げた「助けてよ!」のシーンでもそれは明らかでした。アスカはシンジを助けてはくれません。ただ冷たい視線を投げかけるだけであります。そう、アスカはシンジをばしっと拒絶するんでした。アスカはシンジの寂しさや辛さを補完するモノではないのです。シンジとは全く異なる、シンジにはどうにもならない他者でありました。
 シンジの前にアスカがどうにもならない他者として現われます。そしてアスカは続けてどんどんとシンジを追求していきます。アスカに頼るシンジ、つまり他者=モノとしていて、自分一人しかいない状態のシンジに対して、「その自分も好きだって感じたことないのよ」と攻め込んだりします。この指摘は、一人でいることに寂しさを感じるシンジにとっては、まったくもってその通りの指摘でした。しかし、他者に拒絶されるのがシンジには何よりも恐怖なのです。ゆえにどうにもならない他者としてのアスカを認めることなく、アスカに拒絶されたシンジは首を絞めてしまうのです。自分のことをかまってくれない他者、どうにもならない他者としてのアスカをシンジはここにおいては否定するのでした。

他者の発見2−”どうにもならない他者”から”希望ある他者”へ−

 自分の思う通りにはならないどうにもならない他者。シンジは当初は上に見てきたように否定しちゃいます。が、シンジはそうした他者を否定しきることが出来ません。なぜなら、それでは寂しいからです。自分一人しかいない世界は寂しいのです。人類補完計画の推進は、シンジにその寂しさを気づかせるものでした。それは、自分を傷つけるような他者など要らないと、一人で篭ってしまったシンジに対して、まさに自分独りになってしまった世界、誰もいない世界、他者との関係が断絶した死の世界(これこそ人類補完計画の完成体だったわけですが)を見せつけることで、本当に一人でいいのか、他人と関係を結びたくはないのかと問いかけました。そして改めて考えてみますならば、なるほど他者は他者であって自分とはまったく別個の人なのですが、自分が関係をとっていこうとすれば、ココロを通い合わせてわかりあうことができるかもしれないという「希望」を他者が有しているということが次第にシンジに理解されてくるのでした。
 以上のところは、ラストシーン前で、シンジ、レイ、カヲルによる会話から伺えます。ラストシーンとも関わっており、後で引用を頻繁にすることになりますので、交わされた言葉を引用しておきましょう。

シンジ:「はあーー。あやなみ...ココは?」
レイ:「ココはLCLの海。生命の源の海の中。ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分で、どこからが他人なのか判らない曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている静寂な世界」
シンジ:「僕は死んだの?」
レイ:「いいえ。全てが一つになっているだけ。これが、あなたの望んだ世界そのものよ」

シンジ:「...でも、これは違う。違うと思う」
レイ:「他人の存在を、今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ」
シンジ:「いいんだ...」
シンジ:「ありがとう」

シンジ:「あそこでは...嫌な事しかなかった気がする。だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって...僕が、いないもの。誰もいないのと同じだもの」
カヲル:「再びATフィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」

シンジ:「かまわない...でも、僕の心の中にいる君達は何?」
レイ:「希望なのよ。ヒトは互いに分かり合えるかも知れない...ということの」
カヲル:「好きだ、という言葉とともにね」

シンジ:「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。...僕を見捨てるんだ」
シンジ:「でも、僕はもう一度逢いたいと思った。そのときの気持ちは本当だと思うから」

 人と人とは分かり合うことはできません。
 お互いに他者同士でありますから。
 ですが、言葉を用い、手を用い、働きかけると「ヒトは互いに分かり合えるかも知れない...ということの」「希望、つまり人と人とが心を通わして繋がりあって関係をとることが出来るという「希望」が見えてくるのでした。

ラストシーンへ−I need you.−

 以上を確認した上で、改めてラストシーンを見てみます。場面の流れを先に書いてしまいましょう。シンジとアスカは地面に並んで横たわっています。まずシンジが気づきます。で、隣にアスカがいるのを発見し、いきなりシンジはアスカの首を絞めます。が、アスカはシンジのほっぺたに手を伸ばして触れます。それを受けてシンジは泣きながら手の力をゆるめるのでした。泣くシンジ。そこにアスカは言います「気持ち悪い」と。

 このラストシーンは何なのか。先にまとめると、それまで描かれてきた、他者と関係をとることが出来るんだという希望を再発見して、やはり他者が必要なんだと(「I need you.」)シンジが改めて思い至るシーンであると言えましょう。上にまとめた、劇場版エヴァにおける、「モノどうにもならない他者希望ある他者」というプロセスが、シンジとアスカとの関係において再び立ち現われるのでした。場面一つずつ見てみましょう。

首を絞める

 首を絞める、ということは、劇場版エヴァにおきましては他者の否定とイコールです。前述の「助けてよ!」のシーン、自分を助けてくれず見捨ててしまうアスカに対して、シンジは首を絞めることで応対します。「みんな僕をいらないんだ。だからみんな、死んじゃえ」(シンジ)というわけなのでした。自分にはどうにもならない他者を殺し、死体というモノにしてしまうというのが首を絞めることに他なりません。それが繰り返されているのです。ラストに至ってシンジは再び他者を否定する。

伸びるアスカの手

 しかし、です。そうしたシンジ、誰もわかっちゃくれないとするシンジに対して、アスカの手が伸びるのです。さて、「手」とはなんでしょうか。考えてみますと、先ほどの首を絞めるのも「手」でした。劇場版エヴァを「手」に注目してみてみると非常に面白いのですが、一言で言うと、エヴァの「手」は関係の様々な相を示しています。
 はじめのシーンでベッドのアスカを揺するのは「手」ですし(これはモノとしての関係を表していましょう)、ゲンドウとレイとが融合しようとするのも「手」でしたし(ゲンドウはレイという他者を否定してして自分に回収せんとしていましたね。これも他者がいないという意味で、モノとしての関係を表しているととらえられます。結局はレイに「私は、あなたの人形じゃない」と言われ、拒絶されるのでありますが )、一番なのはシンジとレイとの融合のシーン(上の引用部のシーンです)。「ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分で、どこから他人なのか判らない曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている脆弱な世界」(レイ)におけるシンジとレイは局部と「手」とが融合しています(他者のいない世界を表現)。シンジはその世界を「違うと思う」わけで、もとの世界へ帰ろうとします(引用部、シンジ「ありがとう」のセリフのときのシーンです)。そしてシンジとレイとの「手」は離れていきます(自分と他者との分離であり、「再びATフィールドが、君や他人を傷つけ」(カヲル)「他人の恐怖」(レイ)がある世界への回帰であり、どうにもならない他者の出現、そこにおける関係の始まりを表現)。離れていく途中、シンジはレイの手を握ります「ありがとう」と(他者と感謝で接しています。つまり他者との関係の希望を表現)。→脚注1
 ま、そうしたようにいろいろな関係を示す手なのですが、ラストにおける手はシンジのほっぺたへとやさしげに伸ばされていくわけでありまして、シンジとアスカとの繋がりの手であると言えましょう。それは「ヒトは互いに分かり合えるかもしれない、ということの」「希望(レイ)の手なのでありました。

手を放して泣くシンジ→「気持ち悪い」

 その手を受けてシンジは首を絞めるのを止める=他者の否定を否定する。ここでシンジは泣きます。おそらくは「希望」の存在を確認したからでありましょう。ですが、アスカがそこに言います「気持ち悪い」と。ほっぺへと伸ばされる「手」と「気持ち悪い」。この両者のはざまに見えてくるのが他者との関係の「希望」であります。
 ここのアスカの「手」に象徴される自分を助けてくれる他者は、しかし「気持ち悪い」といって自分を拒絶する他者でもありました。他者と自分とが分かり合えるというのは「自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ」(シンジ)。そして他者には「いつかは裏切られるんだ。...僕を見捨てるんだ」(シンジ)。そうです、他者は他者でありまして、自分ではありません。ゆえに助けてくれるばっかではありません。時として自分に敵対するし、自分を殺そうとして迫ってくるし(使徒、カヲル)。他者っていうのは自分にはどうにもならないということがここで再び確認されます。「気持ち悪い」というシンジを突き放す言葉によって。
 さっき、「モノどうにもならない他者希望ある他者」と書きました。注意すべきは、「どうにもならない他者希望ある他者」のプロセスです。矢印で書いてしまいましたが、移行するわけではないんです。ラストシーンのこの部分にそれは上手く描かれています。アスカ=他者は、やっぱりどうにもならないんです。シンジ=自分に対して「気持ち悪い」と容赦なく嫌悪感を表すような存在なんです。それが基本です。そのことは先ほどの引用部分でも確認されています。希望を言うレイとカヲルに対して、シンジはこう言うのでした。「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。...僕を見捨てるんだ」
 ですが、ですがシンジはその後に言うのです。「でも、僕はもう一度逢いたいと思った。そのときの気持ちは本当だと思うから」。そう、たとえ自分にはどうにもならない他者であろうとも、逢いたいのです。一人でいるのはいやなのです。なるほど一人でいるのは「他人の恐怖」(レイ)がないわけでありまして、安定していてのほほんと出来ることでしょう。が、シンジは「...でも、これは違う。違うと思う」と言います。そうです。そういう状態は寂しいんです。一人は嫌なのであります。自分にはどうにもならない存在であって、傷つけられたりするけれど、他者に「逢いたい」のでありました。→脚注2
 そうした「逢いたい」という「自分自身の意志」(カヲル)で働きかけることによって「希望」が立ち現われてくるのでした。実際に「逢いたい」「意志」して、人類補完計画をつぶしたがために、シンジはアスカに再び逢えたのでした。そこには泣いているシンジにやさしげに手を伸ばすという形での希望が存在していました。アスカは相変わらず「気持ち悪い」なーんていう、シンジにはどうにもならない他者ではありましたけど。
 従いまして、ここで改めて先ほどの矢印図式?を書き改めなければなりません。アスカの両面性からわかるように、どうにもならない他者こそが希望ある他者であります。「どうにもならない他者希望ある他者」なのです。

繰り返した二つの理由

 ところで、最後の問題なんですが、なぜにラストでこうしたことが描かれたのでしょうか。今まで述べてきましたけど、それはもうラストシーンの前の段階で描かれていました。なんで繰り返されたのか。それには二つの理由があるように思われます。
 まず第一に、他者における、他者との関係における希望の発見は、シンジにとってはアスカとの関係においてなされる必要があったからです。シンジがオナペットというモノにしていた他者はアスカでした。シンジに対してどうにもならない他者として現われたのもアスカでした。その上で、いやしかしそうした他者は希望ある他者でもあるのだと、アスカにおいて確認されたのです。引用部分でも希望の存在は言われていました。しかしそれはシンジとレイとカヲルとの対話でのことでした。希望は、シンジにとってどうにもならない他者として実際に存在するアスカにおいて、確認されてのものだねだったのです。
 そして第二に、繰り返されたことは「幸せがどこにあるのか、まだわからない。だけど、ココにいて、生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける。だけど、それも当たり前のことに何度も気づくだけなんだ・・・。自分が自分でいるために」という上の引用部分の後のシンジの言葉と対応していると思われます。「モノどうにもならない他者希望ある他者」というプロセスというのは、何度も何度も繰り返し問われ、何度も改めて気づくような、そうしたことがらであるからなのです。よって、はたまた矢印図式?を変更する必要があります。移行するわけでなく、繰り返し問われつづけることがらでありますから、「モノ←<繰り返し>→どうにもならない他者希望ある他者」とすべきでありましょう。

救いの存在

 分析は以上です。が、最後にラストシーンには救いがあるのだということを強調したいと思います。一見しますと、ラストシーンは非常にシビアです。「気持ち悪い」なんて、拒絶の辛い言葉です。でもそう言ったアスカはシンジへ手を伸ばしているんです。上に確認してきましたように、それは他者との関係の希望であり、救いなのであります。
 さらに、もう一つ救いがあるんです。前節に挙げた、ラストシーンでの繰り返しの問題にそれは関連しています。「モノ←<繰り返し>→どうにもならない他者希望ある他者」っていうのが繰り返されていたんでした。で、それと関連していると思われる言葉をもう一度見てみましょう。「幸せがどこにあるのか、まだわからない。だけど、ココにいて、生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける」(シンジ)今まで「ココにいて、生まれてきてどうだったのか」を、四苦八苦しながらシンジは考えてきました(「これから”も”」ですから、今までも考えてきたわけです)。で、「これからも考え続ける」ということが言われます。幸せがどこになるのかなんてわからないんだけどもです。「ココ」にいることについて考えるということ、そのことを続けるんだというわけですから、それまでのシンジ−「ココ」にいることを悩んで考えてきた−は肯定されるのです。そのように考えることは「当たり前のことに何度も気づくだけなん」です。何度考えても何度も同じようなことに気づくだけ、といったむなしい作業であります。しかし「自分が自分でいるために」やるしかない作業であります。いや、「ココ」に何故いるかということについて「考え続ける」ということこそ「自分が自分でいる」ことの証であるのかもしれません。
 自分は、自分にはどうにもならない他者と一緒にいる。その他者を傷つけつつ逆に傷つけられつつ、自分は他者との関係の中=「ココ」に暮らしている。けど、それってどういうことなのか。他者に傷つけられて、辛い。傷つけてしまって、辛い。もう他者と関係をとることなんて止めよう=「ココ」を去ろう、と思う。けれども、やっぱり去ることなんて出来ない。なぜなら一人は寂しいから。たとえ誰かを傷つけようとも、誰かに傷つけられようとも、その誰かと逢っていたいから、一緒にいたいから。その中に、他者と分かり合える、救い合えるという希望もあるわけであるから...でもやっぱり他者と接するのは辛い、辛いけれども...(段落はじめに戻る)
 こうした結論が出そうで出ない、同じことに気づくだけなんだけれども、「幸せがどこにあるのか、まだわからない」という言葉とともに再び問い返してしまうような、繰り返しの思考があるのです。ですが、ラストシーンの繰り返しを見て、はっと気づくのです。何度も何度でも繰り返して考えつづけていっていいのだと。結論なんて出ないし、結局はおんなじことの繰り返しだけれども、考えていっていいんだ「自分が自分でいるために」。そのようにして繰り返しの思考が認められることによって、繰り返し考えているシンジは救われるのです。

そして繰り返し考える−結びに代えて−

 「気持ち悪い」とアスカが言った後、画面は白転し、右下に「終劇」と表示されています。「劇」は「終」わりました。ですが、エヴァは終わってはいません。繰り返し考えるということがそこには残っています。たとえエヴァという「劇」が「終」わったにしても、シンジとともに「ココ」にいる理由を考え続けるということは「終」わることはないのです。そういうわけで、エヴァ解釈も、たとえエヴァが終わったにしても続けていくわけであります。よろしく(^○^)


「手」から−脚注1−

 上の引用部分について、先程はどうにもならない他者希望ある他者へのプロセスが会話から伺えるとしましたが、以上見てきましたように「手」からもそうしたプロセスを解釈することが出来ます。

待っているミサト−脚注2−

 シンジが「違うと思う」と言ったとき、シンジが持っていたミサトの十字架ネックレスがレイの前に浮遊します。そうです、ミサトとの関係も取り上げなければなりません。「Air」の半ば頃において、ミサトは撃たれます。撃たれた後、エレベータの前でシンジと話を交わすのでした。ここではそのやりとりについて本格的に取り上げることは出来ません。が、本稿と関連するかぎりにおいて、ミサトの言葉を取り上げておきます。
 さて、ミサトはシンジにネックレスを「手」渡しで託しました。そのとき、まずミサトは言います「いい、シンジ君。もう一度エヴァに乗ってケリを付けなさい。エヴァに乗っていた自分に。何のためにココにきたのか、何のためにココにいるのか、今の自分の答えを見つけなさい」。劇場版をちょいと離れまして、TVの方を振り返りましょう。シンジはエヴァに乗ることを止めてもよかったのです。そのチャンスはいくらでもありましたし、先生のところに帰りたいとシンジは望んでもいました。ちなみに、エヴァに乗らないで先生のところに帰るというのは、シンジが一人きりになるということを意味します。先生のところでは、シンジは庭に別棟を与えられ、そこに一人でいたわけですから。しかし、シンジは結局第三新東京市を離れなかった、つまり、みんなのいるところ=みんなと関係を持っている「ココ」にい続けたわけです。それはなぜか。改めて考え直して、決着をつけなさいとまずミサトは言うのです。
 が、ミサトは次にこう言います「そして、ケリを付けたら、必ず戻ってくるのよ。約束よ」。要するに戻ってこいと言っているのです。ミサトはシンジに決着を自分でつけろと言いつつも、「ココ」に帰るようにと、約束をしています。さらに、「いってらっしゃい」と言った後に、「大人のキス」をし、「帰ってきたら続きをしましょう」と言って別れるのです。こうしたミサトの姿勢は何なのか。戻って来て、キスの続きをしようね、ということなのですから、ミサトはシンジの帰りを待つぞと言うわけです(ミサトは死んじゃいますけど)。そう、それはまさにシンジが「ココ」にいていいんだ、帰っていいんだということの証であります。ミサトが待ってくれているわけですから。そしてそのときに「手」渡されたネックレスこそは、「ココ」にいていいという証であり(十字架!)、自分一人しかいない人類補完計画の世界において、レイの前で「違うと思う」=他者のいる関係の世界に帰ろうとするときに、シンジとレイとの間に漂うわけなのです。




直線上に配置
inserted by FC2 system