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もののけ姫−タタラの人々へ−
(まる@「現代アニメ考」:1997年9月26日)
 もののけ姫を観に行きました。夏休み中だと小中高生が多いだろうということで、頃合いを見計らって9月10日に行きました。場所は立川だしそんなには混まないだろうと思っていたら、なんと満員でした。特筆すべき点は年配の方々が多いということです。親子で観にいくと気まずくなること請け合いのエヴァとは大違いで(笑)、広い年齢層に受け入れられているようです。
 さて、このホームページで宮崎アニメが一つも取り上げられていないことから明らかなように、私は宮崎アニメについてはよくわかりません。「ナウシカ」と「ラピュタ」と「紅の豚」くらいしか観てません。ジプリ作品としてはテレビで放映された「海がきこえる」が最も好きなのですが、これって確か宮崎監督は参加していませんよね。はっきりいって、宮崎監督のこれらの作品は、従来よりガンダムとかに慣れているものとしては、どうもしっくり来ないのです。主人公が強すぎます。

 それはいいとして、「もののけ」は従来の宮崎アニメの中でも「ナウシカ」系列を継承しています。ようするに、ヒーローとヒロインがワンセット、そしてそのどちらもが勇気あふれる子供であって、二人が力を合わせてわるものをやっつける、という構図がそこにはあるわけです。こうした構図を目の前にするとちょっと引いてしまうのですが、しかし「もののけ」では私はそう簡単に引くことは出来ませんでした。何よりも「もののけ」には、エボシ御前に率いられるタタラ製鉄集団の存在があったからです。
 ところで、「もののけ」の登場人物達はどういう人間達でしょうか。もちろん宮崎アニメだけにみんな勇気あふれる強い人間なのですが、しかし主人公のアシタカは大和朝廷に負けた王家の血を引いています。しかも呪いにかけられたということで村から半ば追い出される形で旅に出たということでした。また「もののけ姫」であるヒロインのサンは人間の子でありながらも捨てられ、山犬"モロの君"に育てられた少女です。この文章で注目したいタタラ製鉄集団にしても、彼女らはもともと売られたり虐げられたりしてきた人々でした。つまり登場人物のほとんどすべてが<除外された存在>であるということ、これがまずポイントでしょう。
 そしてこの<除外された存在>である人々が自然を<除外>しているということ、この点がさらに注目に値するでしょう。もうカッコ良すぎのアシタカとサンは例外なのですが(宮崎アニメのこういうところが嫌いです)、エボシ御前を中心とするタタラ製鉄集団は鉄をガンガン作っています。自然をどんどん破壊して。しかもエボシ御前は、製鉄のための開発のたびに自分に刃向かってくる「もののけ姫」サンなどを森から一掃し、そこを人間中心の豊かな土地に変えようと考えていたのでした。彼女たちは出来るだけたくさんの鉄を作って、豊かになろう豊かになろうとしています。そのために自然を人間が煮たり焼いたりどうにでも出来る対象としてとらえ、暴力的に自然を支配し管理しようとしているのでした。しかし時代は中世から近世へと至る時期ですから、エボシらが頑張っても、人を寄せつけない自然が、太古の森があちこちに残っているのです。そしてそれらの森の奥では山犬や猪、それに鹿などの獣達が自分達のすむ自然を荒らしている人間を襲い、シシ神を中心に荒ぶる神々として存在していたのでした。そして一方では、森を犯す人間達をこてんぱんにしてやろうと乙事主らのイノシシが立ち上がり、人間側に総攻撃をかけます。また一方ではシシ神を殺そうとするジコ坊とエボシ御前らが動き出して、自然と人間との壮絶なる戦いが始まるのでした。
 さて、私は当然アシタカとサンのやりとりも重視してはいるのですが、先ほども言ったようにここではタタラ製鉄集団に焦点を絞ります。彼女らははっきりいって自然破壊をしているのですが、その彼女らはいったいどういう人間だったでしょうか。アシタカとのやりとりがありましたが、そのシーンを見るに付けても彼女たちは非常に<いい人達>でした。明るくて活発でアシタカなども快く歓迎するし、製鉄集団を組織的に見てもエボシ御前の上意下達というのでもなく自律性が認められているみたいですし。彼女らについては何も問題はありません。ですが、そんな<いい人達>であるはずの彼女たちが暴力的に自然を支配し管理するという<悪い>ことをしているのです(自然破壊が何故悪いか、いいじゃんか。というのもあるでしょうが、それはあまりにも人間中心的ですし、また後々にいたって自然からのしっぺ返しもくるでしょうから)。これが一つの逆説です。またさらに、彼女たちが<除外された存在>であったということを想起すると、もう一つの逆説的な状態が見つかります。それは、自分達がある社会からは<除外された存在>である、つまり周辺の存在であるにもかかわらず、自然に対しては自分達が中心の存在であろうとしている、つまり自然を<除外する存在>になってしまっているということです。こうした二つの逆説的状態に落ち込んでいるのがタタラ製鉄集団であるわけなのです。「もののけ」を見るにつけて彼女たちに注目したのは、一つにはこうした<二重の逆説>が面白いと思ったからなのですが、それよりも何よりも当然のことながら彼女らに現在の私達の姿がダブっているからなのです。一目でそうとわかるようなエゴイスティックな悪者だけが自然をばしばし壊している、といったような簡単な話では済みません。<いい人達>であり<除外された存在>でもある人々が<悪い>ことをし<除外する存在>となってしまっているわけであり、その<二重の逆説>に浮かんでくるのは、普通の幸せを普通に願っている普通の人々=現在の私達なのです。
 さてさて、ストーリーの方に話を戻しまして、戦いのさなか、アシタカは自然の側に立って戦うサンを探し、またシシ神を殺そうとするエボシらを探しました。アシタカは思うわけです「戦うしか他に道はないのか」と。で、宮崎アニメのパターンとして主人公らのはなばなしい活躍が繰り広げられるわけでした。ここいらへんについては、つまりアシタカとサンの想いについては、述べるのは控えましょう。あくまでタタラ製鉄集団にこだわります。
 戦いは続いているのですが、アシタカは戦いを止めようとしてサンを探します。その途中で、イノシシの死体に混じった中から山犬を救い出すというシーンが確かあったと思うのですが、そこにおいて支配者達に逆らい、アシタカの手助けをしたのはタタラの男達でした。そのように、タタラの人々が<二重の逆説>からちょっとだけズレていくという傾向がストーリーの後半にみえてきます。なぜズレたのでしょうか。ラストシーンにありますが、タタラの人々のみならずエボシもこれまでの考えを改めてやり直していこうといいます。なぜ考えを改めたのか。それには二つの要因があると思います。一つは「アシタカとの出会い」であり、もう一つは「自然の自然さの理解」です。
 まず一つ目「アシタカとの出会い」ですが、エボシが変わる、タタラが変わるということは、先に述べた<二重の逆説>の構造が壊れるということです。その構造にヒビを入れたのはやはりアシタカでした。<二重の逆説>構造の中にアシタカという自分達とは異質の他者が入ってくることにより、その構造が内在的に変化したのでしょう。「戦うしか他に道はないのか」とアシタカは突きつけます。この異質な他者の感じ方や行為がタタラをしてズレさせていったのでしょう。次に二つ目「自然の自然さの理解」ですが、エボシを含むタタラの人々は、すべてのものを破壊しつつ自分の首を探すシシ神を見て思うのです。自然が人間の思うがままに管理したり出来ないんだということ。決して自然は人間の作為の対象などにどどまるものではなくて、人知を超えている存在なんだということ。すなわち自然は人間の延長ではなく、人間の外部の他者なんだということの理解が生ずるわけです。で、今までの一方的な自然支配の方向からズレるのでした。
 まとめますに、タタラの<二重の逆説>とは、<いい人達><悪い>破壊行為をしており、また<除外された存在>なのに<除外する存在>でもあるということでした。で、この構図からズレていくということでした。どうしてズレるか。そもそも<二重の逆説>とはすなわち、自ら携える性質が相反しているにもかかわらず、そのまま矛盾として両者を持っているからこそ逆説なのであります。そして肯定的に考えるのならば、矛盾する両者を同時に抱え込んでいるからこそ、両者のどっちにもズレていくことが出来るのです。いかなる契機でズレていけるのか。それは上に述べた二つの要因、一言で言い直すと、異質な他者との出会いそしてやりあいによってでした。私達としても普通は「生産力主義」と言われる考え方にどっぷりとつかっているわけで、将来豊かになるために頑張ろうと前へ前へと進み、みんなが物質的に豊かになれば自分も豊かになれる、だからみんなして頑張って働きまくろうと生産を上げることを第一義的に考えて働きバチとなってきたのでした。その結果として自然を壊し、水俣病などの公害病の発生も無視し続けました。そうして気が付いてみればいつのまにやら自然を、そして周辺的な人々を<除外する存在>となっていたのでした。もう私達はいいかげん物質的には豊かになったのですから、ズレていっていい頃なはずです。このような状況下で、「もののけ姫」という異質な他者といかように出会っていかようにやりあうか。そしてズレていけるのかどうか。それこそが映画を見た人すべてに問われているのです。




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