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機動戦艦ナデシコ総論−自分勝手と「素敵な自分勝手ってとこ」のはざまで−
(まる@「現代アニメ考」:1997年7月26日)

はじめに

 ナデシコも終わってしまいました。悲しい限りですが、いろんな雑誌とかを見ると、来年映画化されるとのこと。いやあうれしいですね。今年の夏にはエヴァの完全版、来年にはナデシコの映画版ですか。幸せな日々が続いていきます。
 ということで、勝手に映画化を記念してナデシコについてまとめてみたいと思います。それに、うーん、どうもナデシコというのはいまいち評価が低いのです。ここできっちりと見直しておく必要があります。ということでこれは今まで書いてあった「試論」をまとめたという形ですが、けっこう書き直してしまっています。そしてそれぞれにつながりを持たせて一つの文にしようと心がけました。また、私の視点が貧弱なため、部分的なことについてしか述べられずにけっこう大事なこと(ユリカかわいい!や、ガイのかっこよさなど)を見逃してしまっています。私なんかが言うことよりも、ナデシコというのはもっともっと魅力にあふれた作品なんだ!ということを声を大にしてここで言っておきたいと思います。
 ガンダムにしてもエヴァにしても、初回が大事でした。ゆえに以下ではまず初回についてまとめます。そして、私はナデシコの最終回はアニメ史上に残る出来だと考えているので、次には最終回について、そしてナデシコで一貫しているラブコメについて書いて、最後に「自分勝手と素敵な自分勝手ってとこのはざま」という形でまとめて、それで大団円です。

第1話「『男らしく』でいこう!」論−手のつけどころのない世の中で−

 初回についてですが、主人公=テンカワ・アキトは火星の住人でした。野菜(果物)配達みたいな仕事をしているどこにでもいるひとりの少年でした。ある日、その配達の途中で、唐突にもアキトは木星からの侵略メカの攻撃に巻き込まれてしまいます。シェルターに避難したものの、そこにも侵略メカは攻めこんできます。アキトはゲキ・ガンガーのアニメにはまり込んでいたこともあって、信じれば自分は正義の味方になれるのだと思い込んでいて、勇猛果敢にも自分のそばにあった車(?)に乗って侵略メカに立ち向かうのです。しかしアキトの頑張りもむなしく、結局シェルターに居た人は彼以外、どかーんの爆発で全員死んでしまうのでした。彼はそのことがショックで、自分が守り切れなかった、そこで死んでしまった人々の象徴として、つまり自らが正義の味方ではなかったことの象徴として、彼がシェルターに入ったときに自分の持っていたミカンをあげた少女=アイちゃんのヴィジョンが頭に残ってしまい、以後のアキトを苦しめることになるのでした。
 アキトはさっきの爆発のときに、ボソン・ジャンプで地球に飛ばされ、そこで料理人としての再起を賭けることとなります。しかし元パイロットということと、戦争の轟音などが聞こえると騒ぎ出す(火星での嫌な思い出がありますから)ことでクビになって、自転車で放浪の旅に今しも出かけて行こうとしていました。が、アキトが火星に住んでいたときの幼なじみ(恋人?)であったミスマル・ユリカと衝撃的に出会い(この時二人はお互いのことがわかりませんでした)、すぐ後にユリカのことを思い出したアキトがユリカを追っていくと、実はユリカは新造戦艦ナデシコの艦長であり、偶然が度重なっていつの間にやらアキトが人型ロボット、エステバリスに乗るはめになり、と戦うこととなるのでありました。機動戦士ガンダムのアムロやカミーユらと同じように、彼は戦争に巻き込まれていくのです。

 ざっと第一話のストーリーを描写してみました。そこではアキトを中心とするナデシコの登場人物達によって担われるべきテーマとして二つのポイントが提出されているように私は思われます。

その1、戦争とは何か−正義とは何か
 正義の味方とは何か、自分はそれになれるのか、そもそも正義とは何か、といった「正義をめぐる考察」です。後に木星とかげが同じ地球人だとわかってからは、正義を自分の中だけで内面的に捕らえるばかりでなく、との関わり捕らえられ、具体的には「いったい戦うとは何であるか」という追求がなされていくことになります。
その2、戦いに巻き込まれた人間として
 上で言ったように、この戦いは正義の戦いではなく、人と人との殺し合いの単なる戦争でした。そこにあるのはゲキ・ガンガーに見られるようなカッコよさではなく、ひとえに人の間で生きる人間の苦悩でありました。しかし相手を殺さないと自分が殺されてしまいます。その中を登場人物達は生きていかなければならないのです。おまけに言っておけば、この戦争には地球政府上層部による陰謀のにおいがします(実際そうだったのでした)。
 ところで、上に挙げた二つはそれぞれが別々のテーマであるのではないのです。戦争に巻き込まれてしまった人間達戦争とは何かについて根本的な追求をしていき、それが物語として描かれているのでありますから、二つは視聴者の前に同時に提示されているのです。いや、同時というよりかここには矛盾があるのです。だって、戦争に巻き込まれていながらにして、つまり戦争の中にいて自らが戦争に従事していながらも、その戦争を徐々に問い詰めていくのっておかしいでしょう。しかしいったん彼らは巻き込まれてしまったわけですから、その矛盾の中にしか生きる道を見つけることができないのです。で、彼らは矛盾を超えようとします。つまり、ちょっとカッコよく言うと、戦争という状況の内に居つつも内を超えていこうとするこの逆説的な存在こそがナデシコの登場人物達なのであります。

 さて、私としてはこのような登場人物達に現代に生きる人間の姿を見ます。ナデシコのように戦争はなくとも、ポスト・モダンの思想家達によって、我々が手のつけどころのない世の中=管理社会=システムの中に必然的に組み込まれてしまっていることが指摘されて久しいわけです。ガンダムを作った富野由悠季さんなどもこの点をよく主張なさいます。つまり、私達など放っておいて、システムが自己運動をはじめてしまうというものです。例を挙げればきりがないのですが、まあ最近の選挙率の低下、すなわち有権者の無関心などは、もう何をしたって政治なんかが我々の言う通りに動くわけないんだ、ということの現れであり、例示しなくてもみんな感じ取ってしまっていることだろうと思います。更に悲観的に見れば、我々はシステムに内面から支配されてしまっており、主体性もくそもないんだということになります。権力が教育制度などを通して我々にに入り込んでしまっているのです。いや、ミシェル・フーコーなどに言わせれば、権力が我々を作り出しているのです。
 でも、何を言ったって、もう巻き込まれてしまっており、そのようなシステムの内にしか人間は生きていくことが出来ないのだからしょうがないのです。さっぱりとここは開き直るしかないと私は考えます。でもって考えてみれば、現在は様々な論者によってシステムの仕組みや生成については発言がなされています。つまり彼らはシステムを読み解いているわけであるから、そこにおいて我々は決して無力ではないのではないでしょうか。思想家らの後追いをして考えたり行為していくことによって、我々はシステムの内に居つつも、四苦八苦していくことでそれを意識することは出来、その時にはシステムの外に−とは言えないまでもせめて両者の境界ぐらいには−立つことが出来るわけであります。アキトを中心とするナデシコの登場人物達と同じように、まさにそのような努力の繰り返しにおいてしか生きていけはしないのが現代でありましょう。

最終話「『いつか逢う貴女のために』」論−死を取り戻せ!−

 さて、そして話は唐突に最終回へ飛ぶのですが、ナデシコの最終回では、が一つのキーワードとなっていたようです。最終回でユリカは、世界平和のために自分がナデシコにひとり残って自爆し、紛争の元凶である火星の遺跡を全壊させることを主張します。ユリカが考えているのは「世界平和のための死」であって、それはつまり殉死と言えます。
 そのユリカに対し、アキトは猛烈に反発します。おまえは死ぬぞ!、と叫んで。先にユリカが殉死を主張したとき、はっきし言ってそこには幼稚さがありました。悪く言ってしまえばユリカはブリッジで戦争を眺めていただけであり、に直面していないのです。一方アキトはまず自らの両親の、火星の人々の、そして自分が倒したを見ています。がまさに終わりであること、それには何らのカッコ良さもなく、ただ一切が終わるのみであることが身に染みてわかっています。「○○のための死」を否定し、アキトの頭にあるのは単に生の終わりとしての死難死なのです(小田実さんの概念を借用します)。
 ここではなはだ唐突に、ユリカの対立者として、フクベ・ジン提督が現れます。フクベはナデシコのクルーを「守るための死」を選び、木星軍との戦いで殉死したはずでした。だが実は木星とかげによって助け出され、捕虜として捕まっていたのでありました。フクベがここに復活したことにより、ナデシコにおいて殉死はすべて消滅してしまいます。初めて私が最終回を観たとき、「なんでフクベを生き返らすんだ、物語が安っぽくなるじゃないか」と思ったのですが、それは違いました。フクベの再生は殉死の否定を指しているのです。そのフクベは、以前に火星で殉死するときにはいわゆる軍人としての似非的な厳格さがあったのですが、復活後はいたって明るく元気です。結局殉死などはなくそのすべてが難死であることを悟った人の明るさで、フクベはユリカに対し、死ぬのはくだらないと言って殉死を止めさせるのでした。

 以上のごとくナデシコ最終回においては、殉死であるとしたユリカを否定し、殉死から難死へとその認識を変更したアキトとフクベを肯定しています。これは最終回のみではありません。第3話でアオイ・ジュンは、愛するユリカのために死のうとしましたが救出されてしまいました。つまり彼は殉死できなかったのでした。フクベが復活する一方で、最終回で完全に忘れ去られているダイゴウジ・ガイは、アニメの「ゲキ・ガンガー3」を見て、友のために死ぬことを、殉死することを夢見ていましたが、結局は逃亡兵に銃で撃たれて死ぬという何ら意味のない死=難死を遂げたのでした。さらに注目すべきは、が同じ人間であったことが分かって以降です。難死するであろう自分達が他人を難死させていたのでした。そのことでナデシコクルーらは苦悩することになります。そのようにナデシコは様々な場面で、が輝かしい殉死ではなく何でもない難死でしかないことを繰り返し繰り返し突き詰めていき、より積極的なを肯定してみせたのであります。
 しかしなぜが実感としてわきにくいSFという場で、ことさらの問題が取り上げられたのでしょうか。それは上記の「第1話論」で述べたごとくの現代の管理社会の中でしか、我々がナデシコの問いかけに答えられないことの反映であるととらえるべきでありましょう。古今東西、政治権力や伝統的な倫理をはじめあらゆるシステム、及びシステムに盲従する人々は、ナショナリズムというパイプを通して殉死を我々に強いてきました。戦前は、軍人みんなが軍人勅諭を暗記させられて、すべてが天皇のための死であったわけですから。今日でも様々な集団、例えば会社のための死が求められています。そして我々にも深層のうちに殉死へのあこがれがあるのがさらに怖いことです。そんなわけで、暗黙のうちにいつのまにか外面からも内面からも死=殉死の公式が我々のうちに成立してしまいがちなのです。だけど死んでしまってはおしまいであって死は難死でしかありえないはずです。その突き詰めた認識があってこそ生を誰にも手渡すことなく「私らしく」「自分らしく」生きていくことが出来るのであり、またその上で生きていかねばならないのではないでしょうか。言葉では簡単に言えて理解できますが、ナデシコの登場人物達のように、四苦八苦しなければその認識には至らないでしょう。それは、火星の文明の謎やアイちゃんがイネスに渡したプレートの謎らとともに視聴者の前に投げ出された宿題であると言えます。

ナデシコの基底へ−ラブコメの発見−

 さて、ざーっと続けてきたわけですが、考えてみると、以上のシステム難死をめぐる思考の根底には「ラブコメ」があったように思われます。考えてみれば、ナデシコでは戦争の始まりから終わりまで至極一貫してユリカとアキトを中心とするラブコメが貫かれていたのでした。戦争アニメーションの元祖といったらなんていったって機動戦士ガンダムなのですが(神島二郎さんも触れていることですが、殉死を悲壮感あふれてむやみに訴えかける宇宙戦艦ヤマトを私は認めていません)、このラブコメでガンダムとはちょっち違ってくるわけです。
 一般的に思春期に恋愛などを通して自分について考えていくようになると言われますが、ナデシコでもラブコメを通して各々が「私とは何か」を考え、私と関係を結ぶべき他者、及び私と他者とを囲い込み、時として両者を切り離す地球や木星などのシステムについても考察が進んでいきます。そして彼らが世界平和や共生などといったいわゆる普遍的価値・理念を考え実行していくにも、やはりラブコメが出発点でありました。ゆえに遥ミナトと白鳥九十九は、かたやいわゆる地球人、かたやいわゆる木星人でありますが、恋愛によって自ら属する集団や国家などの枠組みを取り払って結びつくのです。メグミが、今にも戦わんとする白鳥九十九とアキトとに、なぜ戦う必要があるのか、互いに好きなゲキ・ガンガーのビデオを一緒に見たっていいではないかと問いかけ、その問いによって敵味方の枠を取っ払ってしまうのも、アキトに対する恋心=ラブコメがあったがゆえでした。最終話でもユリカとアキトが内心の恋心を吐露し合うことで、火星遺跡の演算ユニットを戦艦ナデシコごとボソンジャンプさせて戦争の泥沼化を食い止めたのでした。彼らは、世界平和や地球人と木星人との共生などの普遍的価値をいったん放り出して、ラブコメの場で考えつめ、ラブコメをしているからこそ、普遍的価値に確実に辿り着くことが出来たのでしょう。彼らの正義についての考察もそうでした。はじめは単純な悪い奴らを倒すというゲキ・ガンガー的正義だったわけですが、ラブコメから次第にとは何か戦うとは何かといった考察に進み、正義を捕らえ直していったのでした。その上で見てみると、ゲキ・ガンガーの正義などは安っぽいものでした。ですが、アキトは自分がゲキ・ガンガーに惹かれたその想いは大事にしたいといいます。彼はその実を問うこと無しに一本調子で正義に向かってばく進するのではなく、ラブコメを経由して正義を志向した自分の気持ちをこそその手につかむのでした。

 ・・・などと書くと、「ラブコメなんてくだらない。所詮そのような大衆はエリートに支配されないとどうしようもないのだ。」などという一部の人達の勇ましい声が聞こえてきます。確かにそのような意見はもっともです。ナデシコのラブコメなどの生活や私ごとを尊重する態度が、自分の身の回りのことに固執してしまう生活保守主義にのみ行き着き、みんなが公のことを忘れてしまって世の中だめになる・・・という方向性も確かにありえます。ですが、今のような見方には歪みがあるのです。プラトンまでさかのぼってもいいのですが、議論を簡単にするためにそれはやめて、近い所でまとめると、その歪みとはつまりマルクス・レーニンの影であります。マルクスは労働者の団結で共産党革命が起きるとしました。またレーニンは、単に団結だけでなく、前衛たる共産党員が、思想を外部から注入して大衆をひっぱってかないと革命は起きないとしたのでした。両者に共通するのは、そしていわゆるマルクス主義の悪しきところは、<上から思想を注入してまとめあげて操作していこうとする考え>です。それを組織論的に言い換えますとツリー(木)型であったということが出来ましょう。すべて幹部がものごとを決め、上から下へと伝達されて行動に移されます。それだけに強力ではありますが、過ちの多いものです。こーした考えは特に全共闘世代に多いことでしょう。佐伯啓思さんなんかみえみえなのです。言わせてもらいますがそこにあるのは偉ぶった傲慢なエリート主義でしかありません。その考えこそは地球連邦及び木星上層部にはびこっていたものでした。彼らは自分達のやっていること=戦争を正しいものと考えて疑いもせずに、は悪者で倒さなくてはいけないんだという思想をナデシコクルーや木星優人部隊に注入し、戦略上の駒として使おうとしたのでした。実に月臣元一郎などは正義とは何かを自分でろくすっぽ考えもしないで、注入された正義に盲目的に従い、白鳥九十九を殺害するに至ってしまいました。
 ですが、第1話と最終話の考察で確認したように、戦争についてについて考えて共生へ至ることが出来たのは地球連邦及び木星上層部ではなく、戦いの狭間にラブコメを中心として下から試行錯誤して考えていったナデシコクルーと彼らと戦っていた一部の木星優人部隊軍兵士達でした。そこでナデシコが示して見せたのは、上からの操作でなく下からの自発的思考の重要さでした。つまり、あくまで思想なり何なり、公のことなり何なりは、ダイゴウジ・ガイのようにいつぽっくりと死ぬかわからなく、いつもシステムから殉死を求められてしまうような、いわゆる大衆としての自分自身との関わりでもって考えなくてはいけないということです。だってナデシコの失敗を見ても、現にマルクス主義の終焉を見ても、ツリー(木)型的行動のあやまちは明らかでしょう。そういうことを先ほどとの対比でいえば、<下から思想を作り上げて公のことに関わっていく自治を目指していく考え>をナデシコは示しているのだと言えます。これまた組織論的に言い換えるとリゾーム(地下茎)型です。ツリーの下にそれは無数に広がっています。横断的に伸びていって時として横につながり下からネットワークを形成していくのです。そうナデシコクルー木星優人部隊軍兵士達のように。

自分勝手と「素敵な自分勝手ってとこ」のはざまで−ラブコメからの出発−

 でも確かにラブコメははっきし言って自分勝手なんですね。ラブコメに閉じこもって閉塞してしまうこともあるでしょう。その意味で、世の中にたくさん出回っている大衆批判の論調もそれなりに評価できます。今村仁司さんの本なんかはいいのではないでしょうか。しかしよく考えてみると、ナデシコのクルーのラブコメは自分勝手というわけではありません。それはエリナが言う「素敵な自分勝手ってとこ」なわけです。それは自分の身の回りに閉じこもってしまう自分勝手ではなく、自分勝手であるが故に自分の身の回りはもちろんのこと他の国家などに属する人とも手を結びうる素敵な自分勝手です。
 さて、素敵な自分勝手は「自分勝手」であっても「素敵」なわけであり、いかようにして「素敵」足りうるかという問題がそこから生じてくるのですが、私はその答えは先程から繰り返しているラブコメ=「自分勝手」を突き詰めること以外には存しないのではないかと思います。第1話論と最終話論に見るように、そこまで突き詰めて「自分勝手」ははじめてシステムから半歩ずれてそれを見つめることが出来たのでしたし、また「自分勝手」が自分と同じ他の「自分勝手」と出会い、敵vs味方・木星vs地球といった様々な枠組みを超えて共生へと至ることができたのでした。それを突き詰めてないと「愛する人のために戦う!」などと言って結局国家にコマとして利用されているのみであったり、「日本が危ない!今こそ誇りを取り戻そう!」などとナショナリズム旺盛に国家と我々を運命的に結びつけて国家が我々を巻き込んでいく糸口をいとも簡単に与えてしまったりして、結局自分自身を失うことになります。それじゃあだめなのです。アキトやその他のナデシコ登場人物達のように、あくまでいろんな問題を日本とか民族とかでなく自分自身と関わらせて考えるようにすべきです。
 くれぐれも注意すべきは、「ラブコメ=「自分勝手」を突き詰める」といっても、それを押し付けているわけではないということです。決して私ごとをずずずーっと押し付けていって、考え方や姿格好=いわゆる皮膚の色など(ナデシコだと地球人だとか木星人だとか)が同じであるグループを作ってカタまってしまったり、また単なるエゴイズムで公のことも私のことで取り違える公私混同を起こしていく(アカツキがその代表です。彼はただエゴを追っていけば良いとしました)というわけではありません。正確に言うと、ただラブコメ=「自分勝手」を突き詰めていくのではなく、突き詰めた上であらためてラブコメ=「自分勝手」から出発して「素敵さ」へと向かっていく・・・ということになりましょう。そのようにラブコメ=「自分勝手」から出発して考えると、自らの属するシステムの外の他者とも出会ってラブコメ=「自分勝手」をするでしょうし(先程の遥ミナトと白鳥九十九の場合です)、自分が誰かとラブコメ=「自分勝手」をしていれば、自分と同じく誰かとラブコメ=「自分勝手」をしている他のシステム下にいる他者のことも理解しあえますから(ナデシコクルーと木星友人部隊兵達が理解し会えたのはゲキ・ガンガーへの愛情=これも言うなればラブコメでした)、考え方や姿格好=いわゆる皮膚の色などの異なる他者とも公的空間に立つことが出来、そこでの他者とのやりあい(ナデシコクルーと木星優人部隊員との和平に向けてのやりあいを思い浮かべてください)を通じて、共生へ至れるのです。それこそ結局はダイゴウジ・ガイのように、いつころっと死ぬかわからない私、ナデシコクルーらのようにシステムに振り回されるに過ぎない私が、偏屈な国家主義、民族主義に捕らえられてしまって自分を見失うことを避けようとする道であり、「私らしく自分らしく」生きていくための方法であります。今私は簡単に言いましたが、もちろんさっきから言っているように「私ごとから公のことを考えていく」とはいえ、その方向性はエゴイズムに陥ってしまう可能性が大きいことも確かですし、また逆に「いつか見も知らぬが攻めてくるかもしれない→我々の生活=日本国家を守ろう!そのためには何よりもまず国家に誇りも持たなくては」というような国家中心的発想に陥ってしまうこともあると思われます(白鳥九十九を暗殺した月臣元一郎を見てください。彼にとってのラブコメ=「自分勝手」とは、木星の国家統合に利用されていたゲキ・ガンガーに出てくるナナコさんとのラブコメでした。そして彼は同じようにラブコメしているはずの白鳥九十九を、相手が地球人であったということで白鳥が地球側についたとして暗殺してしまいました。月臣は突き詰めたラブコメからでなく、システム操作された底の浅いラブコメから考えて、自ら属するシステムの防衛に向かってしまって友人を殺してしまったのでした)。ですが、ラブコメ=「自分勝手」を徹底して考えつめてそこから出発することでその両者へと向かってしまう危険性を避けることが出来るであろうと私は考えているのです。そして「ラブコメを考えつめ」ていくことに成功した機動戦艦ナデシコについて考察を巡らせているのです。
 長くなってしまったので短くまとめると、正義などという机上の普遍的価値・理念をいったんカッコに入れ、ラブコメのような自分勝手な私ごとから出発する。そうすると同じく自分勝手している他者を発見でき、自分勝手故に相手がどうであろうと相手と関係をとっていこうとしますから、不要な先入観や枠組みを取っ払いうことができ、公的空間でいろいろとやりあうことで、ゲキ・ガンガー的正義などの仲間内だけの理念を再考でき、それこそ実質的に身に染みついた形で他者性を持った自由・平等・共生といった普遍的価値・理念に辿り着けるのです。それらのプロセスを一言で言うなら、「自分勝手」を昇華せしめて「素敵な自分勝手ってとこ」に至ること、とでもなりましょうか。
 しかし、くどいようですがそのように素敵な自分勝手を推し進めることができないということも認めなければなりません。私達はどうも安易なナショナリズムに陥りがちですし、自分以外はどーなってもいいという単なるエゴ=悪しき自分勝手にすぐ行きついてしまいます。はっきしいって自分勝手から素敵な自分勝手へと至るにはとてつもなく多くの困難が伴います。更に言えば、素敵な自分勝手なんて無理なんです。人間は自分さえ良ければいいんですからね。なはは。ですが、そのような悪しき自分勝手であり続けることもまた出来ないのではないでしょうか。ラブコメから出発して考えると、基本的にラブコメは他者の存在を前提としているので人が自分達のみで生きているわけではないということが自然と理解されますし、またシステムは強力な力を持ってラブコメに立ち向かってくるので、公のことに関わらざるをえなくなり、同じく公の場に立っている他者も見えてくることでしょう。このことは今まで振り返ってきたナデシコのストーリーが示してくれたことです。
 そのように考えてみると、何がなんでも素敵な自分勝手じゃないといけない!などと若々しく主張するのではなく、自らの思想の立脚点として「自分勝手と素敵な自分勝手ってとこのはざま」が見えてきます。ナデシコの登場人物達が立っていたのもそこでした。彼らとてはじめから素敵な自分勝手をしてたわけではありません。はじめはアニメのゲキ・ガンガーの安直な正義悪しき自分勝手を信じ込んでいました。それが身の回りの人々の難死と出会い、敵とされていた木星軍兵士達と出会うことでゲキ・ガンガー的正義が揺るがされてきて、最後の最後でエリナに「素敵な自分勝手ってとこ」をしていると言わしめるようになったのでした。彼らは「自分勝手と素敵な自分勝手ってとこのはざま」で揺れ動き、様々な他者と出会ったりすることで「素敵な自分勝手ってとこ」へと徐々にズレていったのでした。「はざま」にいる、ということ。自分が「悪しき自分勝手」「素敵な自分勝手ってとこ」との両者のどっちにも向かっていく可能性があるということを意識すること。そしてそのどっちに向かっているかということは、ナデシコの展開を見てわかるとおり、他のシステム下にいて時としてと呼ばれることもある他者と、ラブコメから出発したところの公的空間で出会ってやりあうことから判断されるんだということ。これらのことがポイントなのです。ですが、我々はすでにシステムに巻き込まれてしまっているのであり、頑張っていくら「素敵な自分勝手ってとこ」に近づいても、システムのいろんな誘い掛けによってズルズルと「悪しき自分勝手」の方に引きずられていってしまうことでしょう。でもその度ごとにラブコメ=「自分勝手」を思い出して、再び「素敵な自分勝手ってとこ」へと向かっていって、システムを巻き返していくことでしょう。そこにあるのは他者とのやりあいの永遠の闘争であり葛藤であります。その中を生きよう、というわけです。
 しかし「自分勝手と素敵な自分勝手ってとこのはざま」に生きようというのははなはだやっかいです。疲れます。しかし、別にエリートなんかではなくシステムに振り回されるに過ぎない私、また「なんたら主義」とか「かんたら思想」とかいうイデオロギーで動かされるような人間でもなくて、みんなで仲良くしたらいいじゃん!というような軽い感覚の私、そして時が来ればさくっと難死を遂げるであろう私が他者と一緒に「私らしく自分らしく」生きていくためにはそこにしか生きるべきところがないわけであり、私は喜んで「自分勝手と素敵な自分勝手ってとこのはざま」身を投ずるのであります。

おわりに−ラブ「コメ」について−

 さて、今までを振り返ってみると、この文章は全体的に多少力んでしまったようです。ですがあくまでナデシコは「愛する人のために殉ずる!」などというのではなくて、ラブコメが基本でした。戦いにしても、難死を考えていくにしても、テンポはコメディでした。そこには笑いがあり、遊びがありましたし、どことなくヌケていました。最後にラブコメコメの要素を強調しつつ、筆を置きたいと思います。



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