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機動戦艦ナデシコ試論集
(まる@「現代アニメ考」:1997年1月〜3月)

第3話 早すぎる『さよなら』!

 山田二郎・・・もとい、ダイゴウジ・ガイは死んでしまいました(T_T)。結構私にとっては衝撃的でした。でもしょせんはあんなもんなんでしょうね。
 ・・・と、私は第3話終了時点で書いたのですが、やっぱしガイは死にましたね。はっはっは、当たったぜい!・・・などと喜んでいる場合じゃなくって、悲しいことですね。あーあ、いいキャラだったのになあ。

 第1話において、明人は火星で、シェルターを攻撃してきた木星からの侵略メカに対して、自分のそばにあった車(でしたよね)に乗って果敢にも立ち向かっていったんでした。でも結局シェルターに居た人は明人以外、どかーんの1つでみんな死んでしまいます。そしてその死んでしまった人々の象徴として、明人がシェルターに入ったときに自分の持っていたミカンをあげた少女のヴィジョンが頭に残ってしまうのでした。彼は、信じれば「正義の味方」になれる!と考えていたのですが、結局はなれなかったのです。
 第3話のダイゴウジ・ガイは、自らを生まれながらの「正義の味方」と信じていて、まさに理想形としての「正義の味方」を描く「ゲキ・ガンガー3」のアニメにはまり込み、「正義の味方」としてカッコよく死ぬことにあこがれていました。ところが、実際は逃亡する裏切り乗組員に銃で一発撃たれてあっけなく死ぬのです。これまた明人の場合と同じように、「正義の味方」であろうとしてそうでいられなかった類型です。
 これらのような、個人の力などたいしたことないし、その生・存在など薄いもんだ、という冷徹な現実認識を踏まえた上で、物語は進んでいくのでしょう。そして、乗組員それぞれが今までの自分から切り離され、過去にあまりとらわれることのない「機動戦艦ナデシコ」というまったく新しい場所で、主人公の明人とユリカを中心として「正義の味方」となること、であること、が試行錯誤されていくのでしょう。ジュンくんは死ねなかったのですから。

 まあそれは先のお話であって、それよりまず、今までの過去の出来事にさいなまれてしまって、明人が崩壊してしまわないことを祈っております。

 それと、ユリカの和服姿がありましたねえ(^_^)。
 いやあ、もう最高!!

試論1「<システム>の<内>に居て」

 97年2月24日記。修正3月30日。

 主人公=テンカワ・アキトは火星の住人であった。仕事である野菜(果物)配達の途中でアキトは木星からの侵略メカの攻撃に巻き込まれる。シェルターに避難したものの、そこにも侵略メカは攻めこんでくる。彼はゲキ・ガンガーのアニメにはまり込んでいたこともあり、信じれば<正義の味方>になれるのだと思い込んでおり、自分のそばにあった車に乗って果敢にも侵略メカに立ち向かう。しかし結局シェルターに居た人は彼以外、一つの爆発で全員死んでしまうのだった。そしてその死んでしまった人々の象徴として、そして自らが<正義の味方>たり得なかった象徴として、彼がシェルターに入ったときに自分の持っていたミカンをあげた少女=アイちゃんのヴィジョンが頭に残ってしまい、以後のアキトを苦しめることになるのだった。
 アキトはボソン・ジャンプのおかげで爆発に巻き込まれずに地球に飛ばされ、そこで料理人としての再起を賭けた。しかし失業し、自転車で放浪しているところを、アキトが火星に住んでいたときの幼なじみ(恋人?)であったミスマル・ユリカと衝撃的に出会い、アキトがユリカを追っていくと、実はユリカは新造戦艦ナデシコの艦長であり、偶然が度重なっていつの間にやらアキトが人型ロボット、エステバリスに乗るはめになり、<敵>と戦うこととなるのであった。
 ざっと第一話のストーリーを描写してみたが、アキトを中心とするナデシコの登場人物達によって担われるべきテーマとして二つのポイントが提出されている。第一に、<正義の味方>とは何か、自分はそれになれるのか、そもそも<正義>とは何か、といった「<正義>をめぐる考察」である。後に木星とかげが同じ地球人だとわかってからは、<正義>を内面的に捕らえるばかりでなく、<テキ>との関係に関係することで捕らえられ、具体的には「いったい<戦う>とは何であるか」という追求がなされていくことになる。第二にあるのは「戦いに<巻き込まれた>人間の姿」である。この戦いは<正義の戦い>ではなく、人と人との戦争であった。そこにあるのはゲキ・ガンガーに見られるようなカッコよさではなく、ひとえに「人−間(じんかん)」としての人間の苦悩であった。しかしその中を登場人物達は生きていかなければならないのである。それにこの戦争には地球政府上層部による陰謀のにおいがする。
 ところで、上に挙げた二つはそれぞれが別々のテーマであるのではない。戦争に巻き込まれてしまった人間達が戦うことについて根本的な追求をしていき、それが物語として描かれているのであるから、二つは視聴者の前に同時に惹起されているわけである。そして考えてみれば、戦争に巻き込まれていながらにして、つまり戦争の中にいて自らが戦争に従事していながらも、その戦争を徐々に問い詰めていくわけであるから、そこにあるのは矛盾であるといえる。しかし彼らはその矛盾の中にしか生きる道を見つけることができないのだ。戦争という状況の<内>に居つつも<内>を超えていこうとするこの逆説的な存在こそがナデシコの登場人物達なのである。
 さて、筆者としてはこのような登場人物達に現代に生きる人間の姿を見るのである。ナデシコのように戦争はなくとも、ポスト・モダンの思想家達によって、我々が管理社会=<システム>の中に必然的に組み込まれてしまっていることが指摘されて久しかろう。<権力>が教育制度などを通して<知>に入り込んでしまっている。いや、ミシェル・フーコーなどに言わせれば、<権力>が<知>を作り出しているのだ。悲観的に見れば、我々は<システム>に内面から支配されているのである。それらの中でも特に筆者が注目するのは天皇(制)という<システム>であるが、いずれにしても、そのような<システム>の<内>にしか人間は生きていくことが出来ないのだからしょうがない。ここは開き直るしかないのである。むろんサルトル実存主義的に楽観的に<主体>に頼ることは許されまい。だが、様々な論者によって<システム>の仕組みや生成については発言がなされている。つまり彼らは<システム>を読み解いているわけであるから、そこにおいて我々は決して無力ではないのではないか。つまり、我々は<システム>の<内>に居つつも、<内>の自分自身を考え抜くことによってそれを意識することは出来、その時には<システム>の<外>−せめて両者の<境界>−に屹立することが出来るわけである。そしてまさにそのような努力の繰り返しにおいてしか生きていけはしないのが現代である。ナデシコはそのような−筆者の好きな言葉を用いると「現代を生きていくための<条件>」を我々に知らしめてくれるのである。

試論2「メグミの視点=<敵>の考察」

 97年3月1日記。修正3月13日。

 ナデシコの物語は、アキトやユリカらナデシコのクルーを中心とした<木星とかげ>という未知のロボットとの<正義の戦い>ではなかった。そのことが初めて明らかになったのが「『僕達の戦争』が始まる」の回であった。
 ハルカとメグミが白鳥九十九に拉致(?)され、木星の戦艦に連れて行かれ、二人はそこで。そしてその他のナデシコクルー達はナデシコ内で、<敵>が自分達と同じ地球人であったことを知らされる。そしてそのすぐ後に、ボソン・ジャンプによって月臣元一郎が急襲、アキトは応戦してこれを倒した。次に白鳥がマシンを駆ってやってくる。その中にはハルカとメグミが乗っていた。アキトに恋心を抱いていたメグミは両者の戦いを止めようとするのだった。メグミは、白鳥とアキトの両者が戦うことはない、互いに好きなゲキ・ガンガーのビデオを一緒に見たっていいではないかと涙ながらに訴えたのだった。しかしアキトは拒絶する。アキトには火星においての恨み(例のミカンの女の子)があり、木星とかげによって被害を被った人々をしょっているからである。
 この時のメグミの視点は注目に値しよう。ナデシコにおいて木星VS地球の戦いを止めさせるのはメグミの視点以外にはないのである。もちろんアキトの言うことも十分に理解できよう。そうそう簡単に身近な人を殺された後の怨みを捨て去って、H.アレントよろしく公共空間のチャンネルに乗って共生への道が開けるわけではない。しかし私はアキトに問いたい。アキトの戦うべき相手=<敵>とははたして何であろうか。「木星人」とすぐ答えが返ってくるだろう。だがアキトにおいてはともかく恨みが先行しているために「<敵>とは何か」という問いが自らの中で十分に考えられているとは言い難いのである。改めて<敵>について考えてみる必要があろう。そもそも戦いのきっかけとは何だったか、なぜ木星と地球との対立が生まれたか。そしてなぜ戦いが続くのか。それらの問いかけの先に出てくるのは、「地球連合」であり、彼らを侵している安易なナショナリズム(安易な<正義>と呼ぶべきか)ではないだろうか。「地球連合」こそが月と火星に移住した人々を見捨て、木星に人を追い遣り、戦争のきっかけを作った。また、主に地球連合と木星上層部に巣食っている安易なナショナリズムのおかげで戦争は続いているのである。そう考えると、アキトの<敵>、白鳥の<敵>は見えてくる。両者が手を取り合うことが出来る場も見つかるのだ。
 <敵>について考えること。それこそが諸個人を戦争によって過度に強調される国家などの狭い枠から、狭いナショナリズムから開放してくれる。つまり戦争という時代やシステムに埋没するのでなく、その問いかけを続けていくことで自分を自分に絶えず関係させていき、自分自身をその手につかめるのである。そしてその上で表層的に<敵>どうしとされている人々が共生できる道が見えてくるのだ。メグミはアキトと白鳥の両者への想いから、以上のことが直感的にわかっていたのである。
 考えてみれば、<敵>に関する考察は機動戦士ガンダムからの戦争アニメの伝統的作業であった。ナデシコにおいてもそれはガンダムに優るとも劣らず重視されている。私がナデシコを単なる諸アニメのパロディとせず、ガンダム以来の系譜に位置づける理由の一つもそこにあるのだ。

試論3「ナデシコにおける<死>の概念+ラブコメの思想」

 97年3月26日記+97年3月30日記。

 ナデシコの最終回では、<死>が一つのキーワードとなっていたようである。最終回でユリカは、世界平和のために自分がナデシコにひとり残って自爆し、紛争の元凶である火星の遺跡を全壊させることを主張する。ユリカが考えているのは「世界平和のための<死>」であって、それはつまり<殉死>である。
 そのユリカに対し、アキトは猛烈に反発する。おまえは死ぬぞ、と叫んで。先にユリカが<殉死>を主張したとき、そこには幼稚さがあった。悪く言ってしまえばユリカはブリッジで戦争を眺めていただけであり、<死>に直面していないのである。一方アキトはまず自らの両親の、火星の人々の、そして自分が倒した敵の<死>を見ている。<死>がまさに終わりであること、それには何らのカッコ良さもなく、ただ一切が終わるのみであることが身に染みてわかっている。「○○のための<死>」を否定し、アキトの頭にあるのは単に生の終わりとしての<死>=<難死>なのだ(小田実さんの概念を借用します)。
 ユリカの対立者として、フクベ・ジン提督が現れる。フクベはナデシコのクルーを「守るための<死>」を選び、木星軍との戦いで<殉死>したはずであった。だが実は木星とかげによって助け出され、捕虜として捕まっていたのであった。フクベがここに復活したことにより、ナデシコにおいて<殉死>はすべて消滅する。そのフクベは、以前に火星で<殉死>するときにはいわゆる軍人としての似非的な厳格さがあったのであるが、復活後はいたって明るい。結局<殉死>などはなくそのすべてが<難死>であることを悟った人の明るさで、フクベはユリカに対し、死ぬのはくだらないと言って<殉死>を止めさせるのであった。
 以上のごとくナデシコ最終回においては、<死>が<殉死>であるとしたユリカを否定し、もともと<死>=<難死>であったアキトと<殉死>から<難死>へとその認識を変更したフクベを肯定している。最終回のみではない。かつてアオイ・ジュンは、愛するユリカのために死のうとしたが救出されてしまった。つまり彼は<殉死>できなかった。フクベが復活する一方で、最終回で完全に忘れ去られているダイゴウジ・ガイは、アニメの「ゲキ・ガンガー3」を見て、友のために死ぬことを、<殉死>することを夢見ていたのだが、結局は逃亡兵に銃で撃たれて死ぬという何ら意味のない死=<難死>を遂げたのである。そのようにナデシコは様々な場面で、<死>が輝かしい<殉死>ではなく何でもない<難死>でしかないことを繰り返し繰り返し突き詰めていき、より積極的な<生>を肯定してみせたのである。
 しかしなぜ<死>が実感としてわきにくいSFという場で<生>と<死>の問題が取り上げられたのだろうか。ハイデガーの示したごとく<死>が観念であることからのそのままの帰結であるといえようが、それはナデシコの問いかけに対し、我々が何もかも手の届かない現代の管理社会下でしか答えられないことの反映であるととらえるべきであろう。古今東西、政治権力や伝統的な倫理をはじめあらゆる<システム>、及び<システム>に盲従する人々は、ナショナリズムというパイプを通して<殉死>を我々に強いてきた。戦前はすべてが天皇のための<死>であった。今日でも様々な集団、例えば会社のための<死>が求められている。そして我々にも深層のうちに<殉死>へのあこがれがあろう。そのように暗黙のうちにいつのまにか外面からも内面からも<死>=<殉死>の公式が我々のうちに成立してしまいがちである。だが死んでしまってはおしまいであって<死>は<難死>でしかありえない。その突き詰めた認識があってこそ<生>を誰にも手渡すことなく「私らしく」「自分らしく」生きていくことが出来るのであり、またその上で生きていかねばならないのである。言葉では簡単に言えて理解できるが、ナデシコの登場人物達のように、四苦八苦しなければその認識には至るまい。それは、火星の文明の謎やアイちゃんがイネスに渡したプレートの謎らとともに視聴者の前に投げ出された宿題であるのだろう。
 さて、以上の<難死>をめぐる思考の根底には「ラブコメ」があったように思われる。考えてみれば、ナデシコでは戦争の始まりから終わりまで至極一貫してユリカとアキトを中心とするラブコメが貫かれていた。一般的に思春期に恋愛などを通して自分について考えていくようになるといわれるが、ナデシコでもラブコメを通して各々が「私とは何か」を考え、私と関係を結ぶべき他者、及び私と他者とを囲い込み、時として両者を切り離す地球や木星などの<システム>についても考察が進む。彼らが世界平和や共生などを考え実行していくにも、やはりラブコメが出発点であった。ゆえに遥ミナトと白鳥九十九は、かたやいわゆる地球人、かたやいわゆる木星人であるが、恋愛によって自ら属する集団や国家などの枠組みを取り払って結びつくのである。最終話でもユリカとアキトが内心の恋心を吐露し合うことで、火星遺跡の演算ユニットを戦艦ナデシコごとボソンジャンプさせて戦争の泥沼化を食い止めたのだった。彼らは、世界平和や地球人と木星人との共生などの普遍的価値をいったん放り出して、ラブコメの場で考えつめ、ラブコメをしているからこそ、普遍的価値に確実に辿り着くことが出来たのだろう。そのようにナデシコの彼らの行動をまとめればそれはエリナの言う「素敵な自分勝手ってとこ」に他ならない。しかしそれは「自分勝手」であっても「素敵」なわけであり、いかようにして「素敵」足りうるかという問題が生じてくるのだが、その答えは先程から繰り返しているようにラブコメ=「自分勝手」を突き詰めること以外には存しないのだ。そこまできて「自分勝手」ははじめて<システム>から半歩ずれてそれを見つめることが出来、また「自分勝手」は自分と同じ他の「自分勝手」と出会い、色々な枠組みを超えて共生へと至ることができよう。それを突き詰めてないからこそ「愛する人のために戦う!」などと言って結局国家にコマとして利用されているのみであったり、「日本が危ない!今こそ誇りを取り戻そう!」などとナショナリズム旺盛に国家と我々を運命的に結びつけて国家が我々を巻き込んでいく糸口をいとも簡単に与えてしまったりして、結局自分自身を失うことになる。そうでなく、ナデシコのように「自分勝手」を昇華せしめて「素敵な自分勝手ってとこ」に至ることが必要であり、それこそが現代を生きていけるコスモポリタンへの道であると言えるだろう。




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