直線上に配置
エヴァ−A.T.フィールドの発見−
(まる@「現代アニメ考」:1997年9月4日)
  A.T.フィールドを中心に書きたいと思うのですが、まずここでは映画におけるアスカの復活を振り返ってみたいと思います。どうしてアスカは復活出来たのでしょうか。その復活までにはネルフに対する攻撃がさんざん行われていました。そして2号機に隠れていたアスカにもその危機が襲ってくるのです。アスカにの危機が訪れます。しかしアスカは「死ぬのはイヤ!」なのです。そう、生きていたいのです。「死ぬのはイヤ!」の繰り返しの後、アスカはお母さんの姿を発見します。
 で、このお母さんの発見がちょっとわからないのですが、それはたぶんA.T.フィールドに関わってくることだろうと思います。復活した後のアスカはA.T.フィールドに感謝し、それを使って戦うわけです。さて、後の方のみんなが生命のスープに還元されていくシーンに見られるように、人間の肉体がA.T.フィールドと同一視されていますから、そこからアスカは自分を守ってくれるA.T.フィールド(=肉体)を作った(生んだ)母親の発見にいたり、「ずっと、ずっと、いつも一緒だったのね。ママ!」という叫びになったのでしょうか。 
 で、そんなアスカが復活するのは先ほども見たように「死ぬのはイヤ!」だからであります。ところでとは何でしょうか。エヴァにおけるとは一言で言って関係の断絶のことです。シンジはアスカとのやりとりの中で「一人にしないで!僕を見捨てないで!僕を殺さないで!」と叫びます。この言葉のそれぞれは同じ時に同じ場所で同じ口調で叫ばれるのですから「僕が死ぬ=僕が見捨てられる=一人のまま」とイコールで結ぶことが出来ます。つまり「=一人」ということなのです。また「みんな僕を、いらないんだ。だからみんな死んじゃえ」という言葉もあります。そこにあるみんなを殺すこと、みんな死ぬこととは、つまり現実の生き生きとした他者と関係せず(つまり現実の他者を殺し)、妄想の中で妄想の自分を、妄想の他者を作り上げ、その中を生きている状態のことです。それは誰もいない世界、他者との関係断絶したの世界です。レイの言葉を借りて正確に言い直せば「LCLの海。生命の源の海の中。A.T.フィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分で、どこからが他人なのか判らない曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている静寂な世界」となります。
 さて話を戻して、アスカはそのような=他者との関係の断絶がイヤなのです。なぜなら「ひとりはイヤ!」(第25話)だから。孤独が怖いから。アスカは「死ぬのはイヤ!」言い直すと「他者と関係断絶するのがイヤ!」肯定的に言い直すと「生きていたい!」つまり「他者と関係を持ちたい」「みんなに逢いたい」のです。ここでA.T.フィールドが発見されるのでした。母親の発見と同じくして。ではA.T.フィールドとは何か。A.T.フィールドは自らを守ってくれるものです。エヴァはA.T.フィールドのおかげで守られ、使徒と戦うことが出来ます。アスカは言います。

「ママ、ママ、解ったわ!」
「A.T.フィールドの意味。」
「私を守ってくれてる。」
「私を見てくれてる。」
「ずっと、ずっと、一緒だったのね。ママ!」

ということなのですが、ちょっちここいらがわかりません(笑)。セリフがこれだけですし、また当のアスカがエヴァシリーズによって倒されてしまって、以後登場しなくなってしまうからです・・・と言い訳をした上で、再びアスカを出来るだけ中心にして考えていきますに、A.T.フィールド防衛的な意味のみだけでなく、相互交渉的な意味がここで出ているのだと思われます。
 アスカは自分のことを他人にあまり話しませんし、また他人に自分の中を見られたくないのでした。22話で使徒に心の中を侵食されたとき「汚された」と感じるくらいのアスカですから。そうして彼女は子供の頃からプライドで身を守り、エヴァ操縦者としての自分の必要性を誇示し、一人で生きてきたのでした。でもその実、彼女は寂しい。かといって他人に心の中に入ってきてほしくない。たぶん、この二重性の中にいるのがアスカだと思います。で、二重性の中でアスカは防衛的な意味のみだけでなく、相互交渉的な意味も持つA.T.フィールドを発見するわけです。防衛的意味相互交渉的意味とを分けて考えてみましょう。

防衛的意味のA.T.フィールド

 今回の映画のエヴァで、シンジが「生命の樹」と化したエヴァの中で自分がどうしたいのか考えるシーンでのアスカが冷たいまなざしを向けるといったシーンがありました。シンジは甘えているわけです。自分を理解してもらいたがっています。自分は他者のことを考えもしないくせに、です。なぜなら傷つくのが怖い、これがシンジには第一義的にあるからです。怖いから他人の中に踏み込んでいきたくないのです。こーいうシンジを告発するのがアスカでした。アスカはどんどん告発していきますが、それでもシンジはわからないのです。みんな僕に優しくしてよ、とか、みんな僕のことをわかってよ、とか叫びます。コーヒーを頭からかぶり、椅子や机を文投げつつそう叫ぶシンジを見てアスカは冷たいまなざしを投げかけるのでした。ぶざまね、と言って。
 この<冷たいまなざし>こそがシンジとアスカをお互い他人として分けているものです。自分に優しくしてくれと叫び出すシンジをアスカはこのまなざしでもって拒絶し、両者が他人であって完全には理解できないのであるとします。A.T.フィールドの発生がここに見られます。そのまなざしは各個人それぞれが心の壁=A.T.フィールドを持っていることでそれぞれが独立分化している他者であることを通告しているわけですから。誰もそのままでは自分を理解してくれるはずのない他人であるということ、他人であるが故に誰も自分の心を理解できるわけがないし、他人の中にも容易には入り込めないのだということの冷徹なる通告、です。シンジを指してレイは言いました。「他人も自分と同じだと一人で思い込んでいたのね」しかし違うわけです。シンジのようなのは「最初から自分の勘違い。勝手な思い込みにすぎない」のでした。

 でもそれだけではありません。

相互交渉的意味のA.T.フィールド

 シンジとレイとのやりとりがあります。

シンジ:「みんな僕をいらないんだ...。だから、みんな死んじゃえ!」
レイ :「でも。その手は何のためにあるの?」
シンジ:「僕がいても、いなくても、誰も同じなんだ。何も変わらない。だからみんな死んじゃえ。」
レイ :「でも。その心は何のためにあるの?」

 自分と他人とを分ける防衛的意味のA.T.フィールド。しかしただ隔てているだけではないんですね。エヴァが使徒と戦うとき、使徒を倒すためにエヴァは使徒のA.T.フィールドを自分のそれとで干渉させ、中和させて相手のコアを叩くのでした。それと同様に、人間は生命のスープではなく、心の壁としての防衛的意味のA.T.フィールドを持った存在であるが故に自分は自分として他人は他人として存在するのですが、またそのA.T.フィールド相互交渉的意味のA.T.フィールドでもあり、例えば手と手を結んだりSEXしたりして他人とつながることが出来るのです。そのようにお互いにA.T.フィールドを干渉させあい中和させることによって。
 個人的に第1話から第4話までが好きなのでそこから例を引きますと、第4話でミサトの家を飛び出してさまようシンジが、夕闇が迫る野原で一人でサバイバルゲームをしているケンスケと出会うシーンがありました。シンジはケンスケのテントに泊まります。このころのシンジには”どうせおいらはひとりさ”みたいな諦念が見られて結構好きなのですが(おいおい)、自分もエヴァを操縦してみたいというケンスケに対してシンジは言います「やめたほうがいいよ。お母さんが心配するから」。それに対してケンスケは言います。

「それなら大丈夫。
 俺、そういうのいないから。碇と一緒だよ」

この言葉を聞いたシンジははっとなり顔を上げました。このケンスケの発言の瞬間、両者の心の壁=A.T.フィールドは互いに干渉しあい中和しあって、レイの言う「ヒトは互いにわかりあえるかも知れない...ということの」「希望」をいくばくか実現しています。4話の最後の方で、トウジがシンジに以前の自分の態度を謝り、シンジに自分を殴らせました。シンジはその後にトウジとケンスケに対して自分の心情を吐露します「殴られなきゃならないのは僕だ・・・僕は卑怯で・・・臆病で・・・」。ここにもA.T.フィールドの相互干渉、中和によるわかりあいがあります。もし自分自身にその意志があるならば、他者とわかりあうことのできるA.T.フィールド、それが相互交渉的意味のA.T.フィールドなのです。

 先述の通り、一人だと寂しいけど他人に心の中に入ってきてほしくないという二重性の中にいるアスカ。彼女が関係の断絶としてのではなくて生=現実関係に立ち返るには防衛的意味相互交渉的意味とを持つA.T.フィールドを発見してこそなのでした。防衛的意味のA.T.フィールドが自分の独立性を守ってくれ、その上で相互交渉的意味において他者と関係が結べるのです。もちろん他者とわかりあうには、A.T.フィールドを互いに干渉しあい中和しあわなくてはいけないので「これ以上心を犯さないで!」(第22話)とばかりは言っておれないでしょう、カヲルの言うように「ただヒトは、自分自身の意志で動かなければ何も変わらない」のですから。第26話の最後でシンジは自分を肯定することが出来たのですが、なぜシンジはそのように肯定へ至ったか。登場人物達に「おめでとう」を言われて返す「ありがとう」がTV版における彼の最後の言葉でしたが、その一つ前のセリフはこうでした。

「・・・僕はいたい。僕はココにいたい!僕はココにいてもいいんだ!」

なぜ「ココにいてもいい」のか、それは「ココにいたい」とシンジが意志しているからです。ココにいたいと思う自分の気持ち、他人に逢いたい他人と関係を結びたいと思う自分の気持ちがあるからこそ自分が肯定されるのです。そうした気持ちとA.T.フィールドの発見とそれらを受けて自分で動くこと、自分から心を開くこと。そのようなことがあってこそ、初めて生=現実関係への回帰はなされるわけなのです。

 個人的な事柄で恐縮ですが、ここしばらくシンジに対するアスカ的なはめを負わされています。きみは僕のことを無視している、いじめているのだというようなことを至極乱暴な大阪弁で書き連ねてメールで送ってこられているのです。でもこのメールを送ってくる人って自分では何にもしないんです。話しかけて、それで返事が返ってこないならそれは無視でありいじめですが、しかし何にもしないのに無視とかいじめとかはないでしょう。メールにおいて妄想をたくましくしているだけなんですね。自分は何もせず他人に優しくしてもらおうなんていうのは甘いのです。なぜならみんなはそれぞれの心の壁=A.T.フィールドを持った他人であるから。おそらくそのメールを送ってくる彼はアスカのまなざしに出会ったことがないんでしょうね。他人というのを経験したことがないのでしょう。理解されようと思ったらA.T.フィールドを互いに干渉しあい中和しあわなくてはいけないのです。所詮は他人、わかりあえっこない。しかしそこにはいくばくかの希望があります。お互いにわかりあえるかもしれないということの希望が。その希望にかけてみないといけなんですよね、もし寂しいのならもし他人と関係を結びたいのであるのならば。
 こういうのはいわゆるメール災害なのでしょうが、でもそのおかげでエヴァについて考えを深めることが出来ましたし、自分を見つめ直せました。そういえば、映画におけるアスカの最後のセリフ「気持ち悪い」を巡っていろいろとあるようですが、ああいう立場に立たされると思いますよ「気持ち悪い」って(^^;;。まあでもエヴァも終わり、このホームページでエヴァを取り上げるのもこれで終わり(たぶん)です。考えれば考えるほどわからなくなり、混乱する一方でしたが、混乱している中でも色々なことを考えることが出来、まあよかったなあと、エヴァと出会えてよかったなあと思っています。




直線上に配置
inserted by FC2 system