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機動戦士ガンダム−反復される<ガンダムの構図>−
(まる@「現代アニメ考」:1996年9月16日(たぶん^^;;))
<注> こちらの文章について「佐々木まさゆき」さんよりご指摘いただき、議論になりました。詳細はこちらをどうぞ。

 以前に書いた文章を「反復される<ガンダムの構図>」というサブタイトルのもとに、焼き直してみたいと思います。ここで言う「ガンダム」とは、初代ガンダム、Zガンダム、ZZガンダム、逆襲のシャアまでを主に指します。「機動戦士ガンダム」については、もう何も語ることなどなく、ただガンダムというアニメがあって、私はそれを見るだけなのだ、といった感じなのですが、私の問題意識に照らして以前の文章を再構成してみます。

 以前の文章でも同じ事を言いましたが、ガンダムのキーワードといったらそれはもう「ニュータイプ」です。あまりよくはわかりませんが、しかるべき人が宇宙(ガンダムらしく「そら」と読むよーに)に出てなんか事件にあったり、木星探査に行ってそのプレッシャーを強く感じたりなんかするとニュータイプとして覚醒するようです。自分の属するいろんなこと(地球連邦軍とかジオン軍とか。また文化とかそんなもん)を振り払って、かつ宇宙は怖いから地球にいるんだといって重力に引き寄せられているのでなく、地球が環境的に危ないといった宇宙規模の思考が出来て、人と人とがわかりあえる可能性、それがニュータイプなんでしょうね。
 さて、ここでZガンダムにおけるカミーユとハマーンとのやりとりを思い出したいと思います。どっちもニュータイプなのですが、最後の方で、戦いのさなかに両者はニュータイプ特有のいつもの空間(?)に落ち込んで、通い合います。両者共々に「我々はわかりあえるかもしれない」という声を聞きます。ですが、両者はわかりあうことはありません。特にハマーンの方が強く拒絶するのでした。生きるか死ぬかといったどん詰まりまできてわかりあえないのであったら、そこで殺し合うしかありません。ここにガンダムの悲劇があるわけです。
 ところで、両者はなぜわかりあえなかったのでしょうか。端的に言って、両者にはニュータイプについての考え方、ニュータイプとしての取り組み方に相容れない違いがあるからなのです。その違いとは、ハマーン的な<上からのニュータイプ>思想とカミーユ的な<下からのニュータイプ>思想とのちがいです。分けて説明すると、

上からのニュータイプ

 まずはハマーンやシロッコや「逆襲のシャア」のシャアといった人達のものです。地球が危機に瀕しているというのに(ガンダムの世界では宇宙世紀の前後で戦争がいろいろあったりして、環境破壊が壊滅的なのです)、宇宙に出てこないで地球に居座って地球をだめにしている特権階級、つまり「地球の重力に引かれた人間達」を強制的に排除して、そしてニュータイプにしちゃおうという思想と行動です。上から、時として毒ガスやコロニー落としや、後期のシャアのように地球に巨大いん石を落すといった強硬手段を用いて、一気にみんなをニュータイプ化させようとします。

下からのニュータイプ

 こちらはアムロや前期のシャア(=クワトロ・バジーナ)やカミーユやジュドーといった主人公側の考え方です。そもそもが<上からのニュータイプ>を推し進めようとする人達との戦いによって得られてくる考えです。こちらは地球全体とか人類全体とかいった<全体>を更正していくために<>犠牲にしたって仕方ないさという思考に対してとことん抗います。主人公達は「地球の重力に引かれた人間達」がどーしようもない人間であるということをいろんな事を通して知ります。アムロだったら「科学者」としての父親の姿を通して、また地球連邦政府の幹部などの腐敗、ホワイトベースに収容された自分のことしか考えない難民達を通して知るわけです。ですが、主人公らは「だから愚かな人間どもを覚醒させてやろう」と言って<上からのニュータイプ>的な発想には至りません。彼らは実は<上からのニュータイプ>的な発想がどれほど提唱者のエゴに毒されているか、人の命を軽んじているかを知っているからですし、またどんなに汚れていても、人間が生きている以上はその生の可能性にかけているからです。

とまあこのようになります。

 さて、ガンダムでは主人公達の思想と行動は<下からのニュータイプ>に基づいています。<上からのニュータイプ>ではあまりに軽視されすぎている人間一人一人、つまり<>の発見がそこにはあります。また「逆襲のシャア」でアクシズが落ちようとしているときを思い浮かべても、地球上のいろんな所にいる人々が地球を横断する形でそのアクシズを見上げるというシーンがありました。またアクシズの落下をアムロが食い止めたとき、サイコミュの粒子が大きな輪になって地球を取り囲むシーンがありました。これらに象徴される<共生>、つまりハマーンとカミーユとが感じあった「我々はわかりあえるかもしれない」という可能性がまた見えます。そうした「<>の発見」と「<共生>の可能性」、この二つがガンダムのテーマとして浮かび上がってきます。もちろんガンダムはそれだけではありません。ここで私の狭い視点から注目する限りにおいては取り合えず二つ見えてくるというにすぎないということに注意です。

 私はこうしたことは以前の文章で述べたわけです。しかし考えてみますと、私の言うような「<>の発見」と「<共生>の可能性」がテーマであるとして、それは初代ガンダムによって十分に表現されていることです。なぜにZガンダム、ZZガンダム、「逆襲のシャア」と同じようなテーマで物語は続いていくのでしょうか。物語が続いていく中で、初代ではザビ家対アムロ、Zではシロッコ対カミーユ、ZZではハマーン対ジュドー、「逆襲」ではシャア対アムロといった構図で<上からのニュータイプ>対<下からのニュータイプ>といった対立は繰り返されています。ちなみにこれはガンダムのみならず、「THE END OF EVANGELION」のゼーレ対碇シンジ、そして「機動戦艦ナデシコ」の地球及び木星上層部対ナデシコクルー及び一部の木星優人部隊というように、多少形は変えども時代や世代を超えて繰り返されている対立です。つまり、<上からのニュータイプ>対<下からのニュータイプ>といった対立の構図=<ガンダムの構図>は反復されるものなのです。逆に言うと、反復されるものであるが故にその構図はガンダム以降の戦争アニメの中で繰り返してみられるものなのです。
 時代を超えて<ガンダムの構図>は反復されるわけですが、特にシャアの転向を見てわかるとおり、一個人の中でも<上からのニュータイプ>対<下からのニュータイプ>の対立があります。シャアはZではクワトロ・バジーナを名乗り、<下から>の立場で戦いました。しかし「逆襲」では自らがリーダーとなり、<上からのニュータイプ>化を目指すのです。シャアを転向させたのはZで指摘されていた権力欲でしょうか、それとも<下から>の遅さにあきあきしたからでしょうか、それはよくわかりません。ですが<ガンダムの構図>の対立が一個人の中で常に起こっていること、無限に反復されていること、これは確かです。
 <ガンダムの構図>が個人間でも個人内でも反復され続けるとして、さてどうするのでしょうか。反復されることを認識して一つの見通しを立てた上で、「反復される<ガンダムの構図>」の中でどう思考し、どう行為するか。ハマーンやシロッコのように<上からのニュータイプ>であろうとするのでしょうか、それともアムロやカミーユやジュドーのように<下からのニュータイプ>なのでしょうか。はたまたシャアのように、構図が反復される中で転向していく道もありえます。さてどうするか。現実の日本に反復させてみますと、<上からのニュータイプ>は常に「日本的なるもの」の復権で彼らが考えるところのズレや異質性を排除して同一化したまとまりを強制的に上から作ろうとする動きとして与えられます。また<下からのニュータイプ>は上述の方向性に抗し、自立と共生の原理で異質なものとも手を組んで下からの参加的なまとまりを作っていこうとします。現実に今のような<ガンダムの構図>が何度も繰り返されてきました。その構図は反復されるものですからこれからも続いていくでしょう。さてこのような構図の中でどうするか。ガンダムは明らかに<下からのニュータイプ>ですし私もその立場ですが、なぜそのような立場を取っているのか、また反復の中でその立場を維持し続けられるのか、といった問題が生じてきます。これらの問題については拙稿「機動戦艦ナデシコ総論−自分勝手と「素敵な自分勝手ってとこ」のはざまで−」で考えてみたつもりなんですが、いずれにしてもいろんなところで<ガンダムの構図>は反復されているということです。そして反復される中で態度決定をいつでも求められているんだということなのです。




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