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エヴァとカレカノ−「他者観」と「関係」の相違−(1)
(まる@「現代アニメ考」:1998年11月3日(加筆修正:同13日))
エヴァとカレカノ−他者観の相違−

 カレカノ、面白いですね。気に入りました。
 テンポのはやさがなによりも素晴らしい。8頭身(?)キャラから3頭身キャラへぽんぽんと変わっていってしまうのも面白いですね。カットの切り替えや、文字を上手く画面にはめ込んだりするのも上手いと思います。

 ま、それはいいとしまして、多少筋を追っていきましょう。宮沢は「仮面」をかぶっている女の子です。なぜなら、他者からすごいと称賛を受けていたいからです。本当の彼女は、非常にずぼらなとんでもない子なんですけど、容姿端麗かつ成績優秀以下省略ってなかんじを「仮面」でうまく装い、学校のアイドルでありました。少なくとも中学までは。
 が、高校に入って、もうかんぺきな有馬と出会って、彼女の地位は揺らぎます。宮沢は頑張りに頑張り、ついには成績面で有馬に並び、有馬に惚れられてしまうという形で彼に勝利をおさめたのであります。んが、こともあろうに有馬の前で大失態を演じてしまうのでした。
 大失敗の宮沢でしたが、これを機に有馬との新たな関係が芽生え、次第に「仮面」を抜きにした関係へと移っていくのでした・・・

 さて、以上見てきましても明らかなように、カレカノでは「他者との関係」が一つのテーマであるように思われます。さて「関係」といいましたら、やはりエヴァだと思います。が、エヴァとは異なる位相でカレカノでは「関係」のお話が進んでいきます。両者をちょいと比べてみることにしましょう。まずは両者の「他者観の相違」に注目しまして、考えてみることにします。あ、比べるからといって、だからどっちが優れているとかいうわけではありません。ここではエヴァとカレカノの特質を見極めるというのが目的です。

エヴァ−他者の不存在−

 資料が手元にありますので、劇場版エヴァをもとにして考えてみます。
 一言で言いまして、エヴァのシンジは人と「関係」をとることが出来ていません。さらに「関係」がどういうことであるかわかっていないようです。またそれだけではなく、「関係」を結ぶべき「他者」のことを理解していないのでした。当たり前ですが、他者とは自分自身とは別個に存在しています。ですから、自分の考え通りには動いてくれず、思うように関係をとってはくれません。映画の後半部分に描かれているように、シンジはアスカに「助けてよ!」と言うのですが、アスカはシンジをばしっと拒絶するんでした。アスカはシンジの寂しさや辛さを補完するモノではないのです。シンジとは全く異なる他者でありました。
 今述べた、シンジがアスカに「ねぇ。僕を助けてよ」と迫るシーンですが、アスカがするどく指摘するように、シンジは「自分しかココにいない」のでした。他者と関係を取り結ぶべき「ココ」におきまして、シンジ自身しかいない。そうです、シンジは他者を否定していますから一人きりなのです。アスカを他者としてとらえるのではなく、自分を助けてくれるはずの自分に都合のいいモノとしてしまっているからです。「自分しかココにいないのよ」とアスカが言うとおり、シンジはそのように他者を自分に引き付けて、自身に都合のよいモノとして回収してしまっているのです。
 アスカは続けて言います。「その自分も好きだって感じたことないのよ」。映画の最初の衝撃的なシーンを想起してください。アスカをオナペット(爆)=自分の性欲放出の対象=自分のおもうがまま、みたいにしている自分をシンジはやっぱり好きではないのです。他者をモノとしてとらえちゃうのをよくないとは感じているのです。しかし、他者に拒絶されるのがシンジには何よりも恐怖なのです。ゆえに、アスカに拒絶されたシンジはアスカの首を絞めてしまうのです。自分のことをかまってくれない他者としてのアスカをシンジは否定するのでした。
 以上からわかります通り、エヴァは「他者との関係」をテーマにしつつも、それをいわば他者の発見という形で考えられているわけでした。自分の思う通りにはならない他者。シンジは当初は上に見てきたように否定しちゃいます。が、なるほど他者は他者であって自分とはまったく別個の人なのですが、自分が関係をとっていこうとすれば、ココロを通い合わせてわかりあうことができるかもしれないという「可能性」を他者が有しているということが次第にシンジに理解されてくるのでした。自分の思うようにならない他者の発見を経て、ココロを通わしうる他者の発見へと、エヴァのシンジは進んでいくわけでありました。
 以上のところを少々強引に図にしてまとめてみましょう。

他者=自分のためにあるモノ

他者=自分にはどうにもならない他者

他者=自分を傷つけたりさえするがココロを通わしうる可能性を有する他者

 エヴァにおきましては、以上のような他者の発見というかたちで、「他者との関係」が描かれているわけでした。

カレカノ−他者の一応の存在−

 では他方で、カレカノでは他者はいかように描かれているか。宮沢を中心に見ていくことにしましょう。
 宮沢の他者観というのは単純なものでありまして、単に他者というのは宮沢を称賛しなければならない存在です。こちらにおきましても、他者はモノですね。自分自身を価値あるものとして高めるべき手段=モノこそが、宮沢にとっての他者なのでした。
 が、注意しなければなりません。エヴァとは違ってくるのであります。まず第一に違うのは、家族の存在であります。
 宮沢は家族の前では素です。だらしないさまをさらけ出しちゃってます。で、特に妹二人を目の前にしますと、自分の悩みですとか、そういうのを打ち明けちゃってるし、相談なんかもしてます。なるほど、その他者は血の繋がりを持った家族ではありながらも、他者とココロを割って話し合える、いくらかは分かり合える、というのを宮沢はわかっているのです。
 第二に違うのは、モノとしての他者のとらえ方です。宮沢は他者を自分を称賛すべきモノとしてとらえておりました。さて、であるからには、「仮面」をかぶっている宮沢は、他者の存在無しには成り立ちません。そうでしょう。宮沢がいわばアイドルとして「仮面」をかぶり続けることが出来ている、ということは、他者が称賛してくれている、ということでしょう。他者の称賛あってこその「仮面」宮沢でありました。ゆえに宮沢は他者の存在の重要性を理解していると思われます。その他者はモノであったとしてもです。
 こちらもまた強引に図示しますと、

      自分 ←→ 妹達
↑↑↑
他者達

と、なりましょう。
 ところで、有馬の問題があります。有馬は宮沢と同じところと違うところがあります。同じところは、他者が一応存在しているところ。彼も宮沢と同じく、みんなにすごいすごいと称賛されることで自分があるわけですから。違うところは、ココロから話し合える相手がいないところです。宮沢のような妹達がいないのです。そのいないところにすぽっとはまったのが宮沢でありました。有馬は、仮面を外してココロを通い合わせることが出来る相手として、宮沢という他者を発見するわけです。ゆえに有馬の場合におきましては、他者の発見が描かれています。
 よって、宮沢と有馬との相違は存在するわけで、その点についても考えてみなければならないわけですが、今回はその話は脇においておきます。よって、本稿でいう「カレカノ」は、「宮沢のカレカノ」です。そのところをご留意ください。

エヴァとカレカノ−関係の相違−

 エヴァのシンジは、アスカをオナペット(爆)としていた。で、アスカに象徴される他者を、自分の思い通りにはならない存在として理解する。その上で他者とのココロの通い合いの可能性が見えてくる。
 カレカノの宮沢は、周りの人を自分の称賛の道具にしていた。だが、まさにそれゆえに他者存在こそが自分を成り立たしめていることを知っていた(他者=称賛の道具としてのモノ、だったとしても)。また、ココロを通い合わせることが出来る家族という他者がいた(他者=家族、だったとしても)。

 ・・・と、比較してまとめることが出来ると思います。そうした相違が、エヴァとカレカノにおきまして「関係の相違」を生じさせたわけです。一方でエヴァではアスカとの関係が映画の最後ではああいうふうに微妙なものとなった。他方カレカノでは、少なくとも第4話時点においては、有馬と”彼氏””彼女”の関係になるに至った、のです。両者のそういう展開の相違は、今までまとめてきた他者観の相違によるものでありましょう。今度は、「関係」の相違について見ていくことにしましょう。

・・・続く・・・



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