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エヴァとカレカノ−「他者観」と「関係」の相違−(2)
(まる@「現代アニメ考」:1998年12月18日)
エヴァ−繋がりの希望−

 エヴァとカレカノの「関係」の相違をまとめてみましょう。単純に言うと、エヴァには他者との「繋がりの希望」が描かれており、カレカノには他者との「繋がりの喜び」が描かれているということになります。まずはエヴァから見ていきます。ここでは、映画版のラストシーンを中心に振り返ることにします。

 さて、「ラストシーン」と言いましたが、劇場版エヴァは最後の最後に「THE END OF EVANGELION ONE MORE FINAL: I need you.」というテロップが出ましたね。ちなみにフィルムブックでは110ページにあります。そのテロップ以降を「ラストシーン」とします。
 ラストシーンに至るまで、シンジはアスカやレイやカヲルなどと対話をし、

「−でも、僕はもう一度逢いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから。」

という気持ちに至ります。そして「他人の存在」を望んで「再び心の壁がすべての人々を引き離す」(レイ)世界へと帰るのでありました。で、人類補完計画はぶちこわされ、後にはシンジとアスカが残されるのでありました。ここからラストシーンがはじまります。
 シンジとアスカは地面に並んで横たわっています。まずシンジが気づきます。で、隣にアスカがいるのを発見し、いきなりアスカの首を絞めるのでした。これはなんなんでしょうか。

I need you.

 場面の流れを先に書いてしまいましょう。シンジはアスカの首を絞めます。が、アスカはシンジのほっぺたに手を伸ばして触れます。それを受けてシンジは泣きながら手の力をゆるめるのでした。泣くシンジ。そこにアスカは言います「気持ち悪い」と。
 このラストシーンは何なのか。先にまとめると、それまで描かれてきた他者との「繋がりの希望」を再発見して、やはり他者が必要なんだと(「I need you.」)シンジが思い至るシーンであると言えましょう。
 首を絞める、ということは、劇場版エヴァにおきましては他者の否定とイコールです。前にも書きました通り、自分を助けてくれず見捨ててしまうアスカに対して、シンジは首を絞めることで応対します。「みんな僕をいらないんだ。だからみんな、死んじゃえ」(シンジ)というわけなのでした。それが繰り返されているのです。ラストに至ってシンジは再び他者を否定する。
 しかし、です。そうしたシンジ、誰もわかっちゃくれないとするシンジに対して、アスカの手が伸びるのです。さて、「手」とはなんでしょうか。考えてみますと、先ほどの首を絞めるのも「手」でした。劇場版エヴァを「手」に注目してみてみると非常に面白いのですが、まあそれはいいとしまして(この点については別稿を予定)、一言で言うと、エヴァの「手」は関係の様々な相を示しています。はじめのシーンでベッドのアスカを揺するのは「手」ですし、ゲンドウとレイとが融合しようとするのも「手」でしたし、一番なのはシンジとレイとの融合のシーン。「ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分で、どこから他人なのか判らない曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている脆弱な世界」(レイ)におけるシンジとレイはあそこ(・・・)と「手」とが融合しています。シンジはその世界を「違うと思う」わけで、もとの世界へ帰ろうとします(上述のところです)。そしてシンジとレイとの「手」は離れていきます。離れていく途中、シンジはレイの手を握ります「ありがとう」と。
 ま、そうしたようにいろいろな関係を示す手なのですが、ラストにおける手はシンジのほっぺたへとやさしげに伸ばされていくわけでありまして、シンジとアスカとの繋がりの手であると言えましょう。それは「ヒトは互いに分かり合えるかもしれない、ということの」「希望」(レイ)の手なのでありました。
 その手を受けてシンジは首を絞めるのを止める=他者の否定を否定する。ここでシンジは泣きます。おそらくは「希望」の存在を確認したからでありましょう。ですが、アスカがそこに言います「気持ち悪い」と。ほっぺへと伸ばされる「手」と「気持ち悪い」。この両者のはざまに見えてくるのが他者との「繋がりの希望」であります。ここのアスカの「手」に象徴される自分を助けてくれる他者は、しかし「気持ち悪い」といって自分を拒絶する他者でもありました。他者と自分とが分かり合えるというのは「自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ」そして他者には「いつかは裏切られるんだ。...僕を見捨てるんだ」(シンジ)。が、「自分自身の意志」(カヲル)で働きかけることによって「希望」が立ち現われてくるのでした。ちなみにラストではシンジは自分から積極的に働きかけてはいません。アスカが「気持ち悪い」というのはそのことも指摘していると思われます。

 ところで、本筋からは離れるんですが、なぜにラストでまたまた他者の否定→希望の発見が描かれたのでしょうか。それは「幸せがどこにあるのか、まだ判らない。だけど、ココにいて、生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける。だけど、それも当たり前のことに何度も気づくだけなんだ・・・。自分が自分でいるために」というシンジの言葉と対応していると思われます。他者の否定→希望の発見というのは、何度も何度も繰り返し問われ、何度も改めて気づくような、そうしたことがらであるからなのです。

実体の不存在−カレカノとの比較において−

 以上まとめてきたことから明らかなように、エヴァには自分と他者とが分かり合うという意味における実体としての関係はないのです。「希望」にとどまるのでした。ラストのアスカの「手」はかなり実体的な関係であろうかと思いますが、エヴァは「希望」を発見するまでであるのです。
 カレカノと比較するとよくわかると思います。カレカノでは「彼氏彼女」という形で実体として関係が現われます。またそこには「喜び」があります。エヴァにおいてはどうでしょうか。シンジの最後の涙は「喜び」とまではいかないように思います。喜びもありましょうが、消極的な喜びでしょう。繰り返しになりますが、他者との「繋がりの希望」を発見した喜びがあるわけで、カレカノのような関係そのものにおける「喜び」はないように見えるからです。

 では次にカレカノを見てみましょう。

カレカノ−繋がりの喜び−

 前にこう書きました。

 カレカノの宮沢は、周りの人を自分の称賛の道具にしていた。だが、まさにそれゆえに他者存在こそが自分を成り立たしめていることを知っていた(他者=称賛の道具としてのモノ、だったとしても)。また、ココロを通い合わせることが出来る家族という他者がいた(他者=家族、だったとしても)。

 また、図を再掲します。

      自分 ←→ 妹達
↑↑↑
他者達

 なわけでありますから、宮沢が他者と繋がるには、他者=「モノ」でなくしてかつ「家族」以外、ということに気づけばよいわけです。しかしそれはエヴァのような意味においての「他者の発見」ではありません。宮沢には「ココロを割って話し合える」ような妹達がいるわけでありますが、これを「モノ」としての他者の方に向けることによって、理解し合えるという意味での他者として他者をとらえ直すわけであります。
 ちなみにエヴァにおいても他者は「モノ」でした。が、それは自己完結していて自分に回収している「モノ」です。シンジにとってアスカはオナペットとしての「モノ」なんですから。また関係性もあまりないですね。シンジは時として他者と離れますし。まあ「ココにいたい」ということで結局は舞い戻ってくるのですが。他方でカレカノの「モノ」としての他者は、図に書きましたように、一応の関係性を有しています。称賛という形で自分と他者が一応繋がっているわけです。「他者−<称賛>→自分」という一方的な繋がりではありますが。そうした一応の繋がりの存在、また妹達とのココロの通わし合い。この二つの存在によって、カレカノのプロセスはエヴァのそれとは違ってくるのです。一言でいいますと、カレカノにおいては、エヴァのような他者との「繋がりの希望」ではなく、他者との「繋がりの喜び」が描かれることになります。具体的に見ていきましょう。

ほっと・安心・気持ちいい・しあわせ・安らぎ

 宮沢は最初は有馬を敵として見ていました。他人に称賛されるべきは自分であるはずなのに、有馬は自分より優れていて、称賛もはるかに多く受けていたのです。宮沢は一生懸命に勉強します。それで結局は有馬に勉強の上で勝ち、有馬をも自分を称賛しなければならないモノとして地位に落とし入れ、彼の称賛も得、満足するわけでした。
 ですが、宮沢は手痛い失敗をしてしまうのでした。有馬の前で本当のだらしない自分の姿を見せてしまうのです。ここから宮沢にとっての「モノ」としての有馬が違った形で現われることになります。宮沢は有馬にいじめられますが、だんだんと有馬の前では仮面を取れることに気づき、恋に落ちていくのでありました。

 ・・・さて、今さくっと書きましたが、宮沢と有馬とは恋に落ちるのです。そして「彼氏と彼女」になっちゃうわけです。ここがエヴァと違います。エヴァではシンジとアスカは恋に落ちないのです。そこにはまだ他者との関係の希望しかないからです。エヴァは希望にとどまります。だから、シンジとアスカとの間には緊張感が残っていましたし、微妙なところがありました。アスカはシンジのほっぺたに手を差し伸べますが、その直後「気持ち悪い」と言うのでしたし。
 カレカノにおきましては、宮沢と有馬は、二人でいる時にはお互いのかぶっている仮面を取れるのに気が付きます。仮面を取って一緒にいるということが楽しいことだとわかってきます。なるほど確かに、「彼氏と彼女」になる前までは恐怖がありました。宮沢いわく「私は傷つかないために逃げてた」(第4話より)わけです。そこで妹の花野が言います。宮沢はホントの自分を出して傷つくことに慣れてない。でも、傷つくことから逃げるっていうのは、相手よりも自分のココロを大事にしているからではないか。それって人を好きになるというのとは逆のことではなかろうか。・・・そして宮沢はこの花野の言葉を受け入れるのです。傷つくことを非常に恐れる碇シンジとはやはり違いますね。宮沢は言います「もし、傷つくのなら、最初の相手は、有馬がいいわ」傷つくことを認めること。<たとえ傷ついたとしても、有馬と結びつきたいという意志>がここにはあります。<確かに傷つくけど、他者とわかりあう希望はあるのだという理解>にとどまるシンジとは違うんです。
 で、有馬との関係はそんな感じなのですが、これが波及します。考えてみますと、宮沢には友人がいませんでした。みんなは自分を称賛する「モノ」であったわけですから。それが、いじめられることを経て、友人が出来てきます。もう臆することはないのでした。宮沢は、自分がどうして仮面をかぶっていたのかということ、なぜ今仮面を脱いだのかということ、それらを率直に語るのでした。自分のココロのうちを吐露することで、友人が出来たのでありました。
 さて、そんな宮沢が、有馬との関係そして友人との関係をどのように感じているか。11話から取り出してみましょう。まず、夏休みに女の子達と遊ぶことを宮沢は「うれしいなー、うれしいなぁー」とします。事実カラオケに行っても宮沢はノリノリでした。また教室で抱きしめたいと言って有馬は宮沢を抱きしめるのですが、その時宮沢は「ほっとする」「安心する」「気持ちいい」「触れたすべてから幸せが広がっていく」「安らぎ」などを感じています。さらに、友人と接することやこれからの自分については真秀と「二人で」一からはじめようと言います。注目すべきは以下のモノローグ。

「友達がいる。それだけで心細さが消えていく。私はもう一人じゃない。友達がいるんだ!」

 友達によって心細さが消えると言っています。友達はいるのですが、うまく関係が取れないで苦しんでしまう、といった碇シンジ的な悩みはそこには見られません。他者との「繋がりの喜び」こそがあるのでした。

おわりに

 エヴァとカレカノとの比較は以上のようなものです。はじめにも書いたのですが、比較したからといってどっちが優れているとかそういうことを言う気はないのでご留意を。
 こうして見てきますと、エヴァとカレカノとが繋がって見えます。エヴァで発見された「繋がりの希望」が、カレカノでは「繋がりの喜び」として実体的に現われるということで。ま、しかしながら、これを書いている時点ではカレカノってばまだ途中です。まだまだ今後を見定めなければだめでしょう。軽はずみな発言は避けるべきでありましょう。ここではとりあえず、エヴァとカレカノとの比較において両者の特質を書けたかなあというところで終わりにしたいと思います。




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