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カレカノの「ほんとう」−気持ちの強度−
(まる@「現代アニメ考」:1999年2月10日(修正:2003年12月1日))
「ほんとう」とは?−宮沢と有馬から

 カレカノにつきましては、ちょいと引っかかるところがありました。それは「ほんとう」です。「ほんとう」ってばなんでしょうか。そもそも、カレカノにおきましては「仮面」がはがれて「ほんとう」の気持ちに至る、っていうような展開が多いですね。宮沢と有馬なんてまさにそうです。で、そういうような言い方をされますと、なんだ、じゃあそれまでの気持ちは「仮面」であり、うそだったということになるの?という疑問が生じてきます。
 どうなのでしょうか。「ほんとう」ってばそういうことなのでしょうか。宮沢と有馬の気持ちを検証してカレカノにおける「ほんとう」を探ってみることにしましょう。18話「シン・カ」19話「14DAYS・1」から見てみます。

有馬から

 18話「シン・カ」は宮沢と有馬とが”繋がる”話でした。が、ここで注目するのはその”繋がる”場面ではなく、その場面の前後です。前後に有馬の気持ちがはさまっているのです。そこを見てみましょう。
 有馬はその日、法事のために有馬家の人々と会わなければなりませんでした。有馬の実の父は不良であり、悪いことして失踪してしまったわけでした。有馬はその息子でありますから、当然に有馬家の人々から「うとまれている」わけでして有馬家の「汚点」とすらされています。んなわけで、おばに無視され、いとこにもいじめられます。
 このおばはみんながいる場所から有馬がちょいと席を外したのをいいことに、有馬の両親に対して有馬のことをぼこぼこに言うのでした。ですが、有馬の父は反論します。「あの子は頭も性格もいい」。立場もよくわかってるし、県立トップ校にトップで入学しましたし。「出来がいいとか悪いとかの問題じゃあない。私はあの子がかわいい」と有馬をかばうのでした。
 さて、有馬をかばう論理を見ます。両親にとってはなによりも有馬がかわいいのでした。それが中心でしょう。ですが、かばうときに、有馬が非常に優秀であることが傍証として出されるわけです。となりますと、やはり有馬は優秀でないといけないわけです。優秀だからこそ両親も強く言えるわけですから。宮沢にいくら救われているところで、優秀でなきゃいけないというのは譲れないのです。むろん有馬の気持ちとしては、宮沢と一緒にいて、それで救われる、というのが大きいわけです。有馬は有馬家の法事の後に「憎悪と、自分の存在を黒いしみのように思う気持ちとにさいなまれる。そして消えてしまいたい」と思います。が「僕の特別大切な人が、僕を特別大切に思ってくれる。それだけでもう・・・」と思うわけですから。宮沢との関係を大切に思うのが有馬の中心です。
 続いて、宮沢と繋がった後の有馬を見ましょう。有馬は一人で寝ているのですが、夢を見ます。夢の中でもう一人の有馬に言われるのです「お前これで幸せになれるとでも思ってんの?」と。そして子供の頃の記憶がよみがえります。暴力で「心はズタズタ」(テロップ)「生まれテきたくなかッた」(同、新聞切り抜き文字)という記憶。なぜ思い出す/させるのか。もう一人の有馬は言います「幸せになろうなんて思うからだよ」「そういうところから心がほつれていくのさ」。さらに注目すべきは以下のセリフ「お前は俺から逃げられない」「俺はお前なんだから」。
 次項の宮沢のところで確認しますが、やはり有馬の気持ちは宮沢と一緒にいれればいい、それで幸せ、というものです。だがしかし昔の記憶=「心はズタズタ」=生まれてきたくなかったという気持ちは残っているわけです。「お前は俺から逃げられない」「俺はお前なんだから」。つまり、有馬にとって「ほんとう」の気持ちは宮沢といっしょにいるだけで幸せ、というのなんですが、優秀でなくてはいけないとか、生まれてきたくなかったというズタズタの気持ちは継続してあるんです。ここに注目でしょう。

宮沢から

 宮沢の方はどうでしょう。18話では、有馬と一緒に図書館で勉強しているシーンにおきまして、有馬が本を30冊読むと言うのに対して対抗心を燃やしまして、私は50冊読む!といきまくのでした。宮沢もそういうところは変わってませんね。競争好きという気持ちもそのままです。
 19話を見ましょう。まず「AM8:15 通学路」にて。宮沢は有馬を見つけます。でもってべたべたーっとするわけです。が、今日は夏休み明けの最初の実力テストの日でした。宮沢は「一番でなくちゃいけないのよ!」と首位奪還宣言を有馬に対してするのでした。テストに際してはいくら有馬といえども敵でありまして、宮沢は有馬より先に学校へいって勉強をするわけでした。有馬に不安とも不満ともいえる様子が浮かぶんでした。
 さて、テスト後の学校はホームルーム。文化祭をどうするのかについて話し合いがなされます。宮沢は議長のくせに思いっきりやる気がありません。が、文化祭でお客さんを一番多く集めることのできた団体には、学校側からかなりいい権利が与えられるという仕組みになっていました。宮沢は俄然やる気になります。特にF組に対して、浅羽に対して非常に強い敵対心を燃やすのです。学級委員の会議でもF組に突っかかり、F組にA組なんてびりなのさ、と言われて「一番はあたしなのよー!!」と叫んで巨大化(笑)して暴れまくる始末でした。
 一番になってみんなから誉められたい、称賛されたい、という昔からの気持ちが継続してます。有馬に対しても「一番じゃなきゃやる意味無いわよ」と言います。が、その直後、宮沢は有馬を見て顔を赤らめます。有馬から体のことを聞かれて、大丈夫だと答え、「私、うれしかったし」と言います。有馬はやさしかった。有馬に大事に思われているというのがわかったからです。有馬との繋がりにうれしいと感じているんです。宮沢も有馬との関係を非常に大切にしているんだということがわかります。有馬もここで「君さえ 側にいれくれれば僕は」(テロップ)と思うわけでして、宮沢も有馬もお互いの関係こそを大事にしているわけでした。

気持ちの強度としての「ほんとう」

 有馬と宮沢を見てきました。その上で、では「ほんとう」というのをどう解すればよろしいのでしょうか。今の気持ちが「ほんとう」だからといって、今までの気持ちがうそだということになって棄てられてしまうというわけではないということは上で確認してきました。さすれば「ほんとう」ってなんでしょうか。
 ここではずばり、「ほんとう」=気持ちの強度、としたいと思います。つまり、「ほんとう」というのは今ここにおける気持ちの強さです。有馬においても、宮沢においても、今ここにおける気持ちはお互いが一緒にいられるだけでいい、というものです。その気持ちが今ここにおいて一番強いのです。ですから「ほんとう」の気持ちであるとされるのです。逆に、今までの気持ちとかふるまいは「仮面」だったとされますね。こちらは気持ちが弱まったことを指していると考えられます。宮沢が有馬と、有馬が宮沢と繋がっていたいというのが「ほんとう」になる=繋がりたいという気持ちが強くなるわけで、反対に今までの、やれみんなに称賛されたいとか、やれ優等生でなくてはいけないとかいうのは「仮面」となる=気持ちとしては弱くなるわけです。どうも「ほんとう」「仮面」という言い方をされると、今までの自分はうそだった、これからが本当なのだ!というようなイメージを受けますが、そうではないんだと思います。上にまとめてきたように、宮沢にしても有馬にしても今までの気持ちは継続しているわけなんですから。
 ゆえにワタルさんが見事に論じられていますように()、カレカノのテーマとして”本当の自分の発見”というのは立てられないと思います。本当の自我があって、それが覚醒していくという物語ではないでしょう。宮沢が有馬と出会い、有馬が宮沢と出会って、関係をもっていろいろとやりあっていくなかで、これまで自分に強くあった気持ちではない他の気持ちが開示されていく。そしてお互いが一緒にいるときの気持ちこそが強くあるんだ、ということに気づいてくる。そこにおいてはじめてわかる。これこそが自分にとっては強くある気持ち=「ほんとう」の気持ちなんだと。今までのは「仮面」だった=気持ちとして残ってはいるけど弱くなったんだと。カレカノにおける「ほんとう」ってのはそんなんじゃないかなあと思います。

ワタル「本当の自分の発見はカレカノのテーマか」(1999年1月22日)
(”ワタル”さんが「アニメのイリアステル」というHPで掲載していた文章。残念ながら現在は見ることができません。by まる@「現代アニメ考」 at 2003/12/1)




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