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記憶の物語−ミサトの十字架を巡って(前編)−
(まる@「現代アニメ考」:2000年11月20日)
はじめに−「十字架」−

 はたまた劇場版エヴァを巡って書きたいと思います。前から一つ気になっていたことがありまして。それは何かといいますと、サブタイトルにも挙げたとおり「ミサトの十字架」であります。私は以前、ミサトの十字架のネックレスについて以下のように述べました。

そしてそのときに「手」渡されたネックレスこそは、「ココ」にいていいという証であり(十字架!)、自分一人しかいない人類補完計画の世界において、レイの前で「違うと思う」=他者のいる関係の世界に帰ろうとするときに、シンジとレイとの間に漂うわけなのです。
(「希望の発見−他者と自分とのはざまで−」)

 そうです。劇場版エヴァにおいて、ミサトの十字架はシンジに手渡され、以降彼のもとにずっととどまります。本稿では、その十字架に改めて着目し、その行方をたどることによって、劇場版エヴァを「記憶の物語」として再読してみたいと思うのです。以降では、劇場版エヴァにおける十字架を地味に追っていくとともに、TV版との比較も行いつつ考えていきます。

ミサトとその”父親”

 まず、劇場版エヴァを見る前に、TV版エヴァ第12話「奇跡の価値は」を振り返ります。ミサトの十字架のネックレスに焦点があたるからです。ミサトの子供の頃が描き出されます。15年前、父親とともに南極に来ていたミサト。しかしセカンドインパクトの大爆発に見舞われてしまいます。そこで、ミサトの父親はミサトのみを脱出用ポッドに入れて、ドアを閉め、自分はポッドに覆い被さるように倒れかかります。そこでまた爆発が起こり、ミサトの父親は死んでしまうこととなります。父親に助けられたミサト。ミサトは海上でポッドのドアを開け、セカンドインパクトの爆発を見つめます。その胸には十字架のネックレスが下がっています。場面は変わり、今、朝に着替えをしているミサトの顔が映し出されます。その画面の直後、十字架のネックレスに焦点が当たります。ちなみに12話からちょいと離れて確認すると、子供のミサトは、セカンドインパクト後に助かるのですが、しばらくは何もできません。白い部屋の中で沈黙を守ることとなるんでした。
 ミサトはこの経験から、使徒を敵視し、使徒を倒すことをこそ自らのネルフにいる理由であるとします。そのことをミサトはシンジに話します。自らの父親との関係(研究に没頭し、ミサトら家族から「逃げてばかりいた」父親でした)、父親に助けられた自分を語ります。ミサトの父親は「最後は私の身代わりになって、死んだの」でした。その話のとき、ミサトの首のネックレスに再び焦点が当たるのです。
 さて、このときの十字架のネックレスについて考えてみましょう。ミサトにとって十字架のネックレスはどのようなものなのでありましょうか。十字架への焦点の当たり方から、南極での出来事、父親に助けられたことの象徴としてそれがあるというのがわかりましょう。ミサトは父親に助けられた、守られたわけでありまして、父親の思いとともにネックレスにそうしたことが込められているわけです。そうなりますと、十字架のネックレスは、ミサトが他者によって助けられたという記憶の象徴である、と言い得ましょう。ここで他者っていいますのは、自己でないというので使っているわけで、肉親とても他者としています。この記憶っていうのを、こっぱずかしく青臭く言い直すならば、愛されたという記憶である、ともいえましょう。愛なしにはミサトの父親はミサトを助けられなかったでしょうから。他者に助けられた、守られた、愛された記憶としての十字架のネックレス、であります。
 ミサトの十字架のゆえん=ミサトとその父親のエピソードはそんな感じです。あと、十字架とは離れるのですが、TV版第15話「嘘と沈黙」を振り返っておきましょう。15話では、ミサトが加持リョウジと再びくっつく話があったわけですが。そこでミサトは、加持に自分の父親を見ていた、という旨の話をします。後でもちらっと振り返りたいところなので、少し見ておきましょう。
 友人の結婚式の3次会の帰り。泥酔したミサトと加持。二人して歩いています。ミサトは言います。ミサトが加持と別れたのは、ミサトが加持に自分の父親を見ていたことに気づいたからだと言います。そのことから、「父親の呪縛」(ミサト)から、逃れたのだとします。ほんで自分を追いつめていくミサトに対して、それを黙らすようにして加持がキスをするのです。ここんとこ、シンジとアスカもキスをするわけで、その対比なんかもおもしろいのですが、本論ではおいといて、ここでは単にミサトが加持に自分の父親を見ていた、っていうところを確認するにとどめます。

ミサトとともに

 では、劇場版エヴァにおいて、十字架の行方を追っていくことといたしましょう。
 十字架はまず、ミサトとともにあります。彼女のネックレスなのですから、当たり前ですが、彼女の首にぶら下がっているわけです。劇場版では、ミサトがエレベータ?で指揮所にあがってくるところで、その首にぶら下がっているのがはじめて確認できます。次は軍隊がネルフに攻めてきたときに、エヴァのパイロットそれぞれをかくまうように指示をするシーン。ミサトの首に十字架のネックレスがぷらぷらと揺れています。さらに次は、進入してくる軍に対してネルフがどんどんやられていくのを見て「無理もないわ。みんな人を殺すことに慣れてないもの」と心の中でつぶやくシーン。そして、3層まで破棄を決定し、ベークライトを注入して「これで少しは持つでしょう」とつぶやくシーン。ミサトの首に十字架がありますね。そしてミサトはここで、シンジがいまだ危険な場所にいること、このままでは殺されかねないこと、を知るのです。そして彼女はシンジのもとへ向かうこととなります。
 しかし、このときのシンジって、まったくぼろぼろでした。生気が感じられません。ミサトが手を引っ張ってエヴァに乗るように促しても「助けてアスカ助けてよ」とつぶやくのみです。そんなシンジにミサトは言います。「こんな時だけ、女の子にすがって、逃げてごまかして!中途半端が一番悪いわよ!」と。で「立ちなさい」と言い、「あんたまだ生きてるんでしょ!だったらしっかり生きて、それから死になさい!!」と言うとき、ミサトの首の十字架が揺れます。振り返ってみますならば、このシンジの状態って、かつてのミサトと同じです。うつろな目をし、なにもしないでただいるだけ。このときのミサトの十字架のネックレスは、シンジとミサトとをダブらせ、揺れる十字架とともに吐かれるミサトの言葉は、かつてのミサト自身へ向けられる言葉であり、彼女がこの言葉とともに立ち上がっていったのではないかということをも想定させられましょう。ほんでさらに突っ込みますならば、この時点でミサトはシンジが「逃げてごまかして」いるとみなしていることに注目でしょう。ミサトにはわかっているのでした。ミサトはシンジであり、シンジはミサトなわけですから。

シンジとミサトとの語らい

 さて、その十字架はミサトからシンジへと手渡されることになります。ここんところを追っていきましょう。車の中で、ミサトはシンジにゼーレ(あるいは碇ゲンドウと冬月コウゾウ?)のシナリオを語ります。生き残るしか道はないのだと告げます。そしてエレベータの前まで来たとき、軍の狙撃を受けることとなるのです。
 狙撃を受けつつもなんとかエレベータまでたどり着き「これで時間、稼げるわね」(ミサト)ということでしばしミサトとシンジとの語らいが始まります。ここは細かく追っていきましょう。
 まずミサトは言います。「いい?シンジ君。ここから先はもうあなた一人よ。すべて一人で決めなさい。誰の助けもなく」。これって、ミサトはもう自分は一緒にいけないってことを言っているわけですね。シンジはそれを知ってか知らずかミサトの血塗られた左手を流し見ます。
 シンジは言います。「・・・僕はダメだ。ダメなんですよ・・・」と。アスカにひどいことをし、カヲルを殺してしまうような人を傷つけることしかできないような人間は、なにもしない方がいいのだと、シンジは言うのでした。今までなぜにシンジが落ち込んでいたのかの理由がシンジの語らいによって明らかにされます。
 それに対してミサトは言います。「同情なんかしないわよ。自分が傷つくのがいやだったら、何もせずに死になさい」。ミサトはここでシンジの論理に乗っかって語ります。シンジの論理をちょいと先に進めれば死ぬしかなくなるわけですから。
 その言葉を受けてシンジは泣きます。ミサトが「今、泣いたってどうにもならないわ」と声をかけても泣くのみです。自分が人を傷つけてしまったことに泣いているのか、「ズルくて臆病なだけ」(シンジ)で何もできない自分が情けなくて泣いているのか、「アスカにひどいことしたんだ」ということから「何もしない方がいい」ってなったわけなのですが、逆に何もしないっていうことで、アスカを窮地に追い込むというさらにひどいことをしようとしている自分に気づいて泣いているのでありましょうか。
 ミサトは言います「自分が嫌いなのね。だから人も傷つける。自分が傷つくより、人を傷つけた方が心が痛いことを知っているから」。シンジは人(アスカやカヲル)を傷つけてしまったことを強く意識しています。でも、エヴァを見ていて、シンジがそれほど人を傷つけているとは思えないのです。アスカにはそんなにはひどいことをしていないでしょうし、カヲルを殺してしまったのだって、そうしなければみんな死んでしまったわけですから。でもシンジは罪の感覚にさいなまれている。その根底には「自分が嫌い」だという認識があるということをミサトは指摘しています。シンジは、「自分が嫌い」だからこそ、自分のことを他人を傷つけてしまう人間だというように規定し、よりいっそう心を痛めてしまっているわけです。でも、「でも、どんな思いが待っていてもそれはあなたが自分一人で決めたことだわ。価値のあることなのよ、シンジ君。あなた自身のことなのよ。ごまかさずに、自分にできることを考え、償いは自分でやりなさい」(ミサト)。まずシンジのすることを自分一人で決めることであるがゆえに「価値のあること」として認めています。こういうとなんだか自分オンリーで決めたからこそいいんだ、っていうようなエゴ的な感じがしますが、ここはそうではなく、”あなたが決めたこと”っていうところに重点が置かれていると思われます。次の節で述べますが、シンジがミサトさんだって他人じゃないかといったときに彼女はブチ切れて、彼女はシンジがおいらは自分一人っきりなんだ、ってことを言うのを怒るわけですから。そう、ミサトはこの”あなたが決めたこと”っていう”あなた”=シンジに力点置いた言い方でシンジに価値があるとし、シンジの存在をこそ認めているのです。そんなに自分を嫌いにならないでと言っているのでしょう。その上で、シンジが感じている罪に対する償いを行いなさいと言います。
 これに対してシンジは叫びます。「・・・ミサトさんだって、他人のくせに、何もわかってないくせにっ!」。

シンジへの継承−「約束よ」−

 さっきもちらっと言ったように、その言葉を受けてミサトはブチ切れます。シンジの首根っこをつかみ、エレベータの金網に押しつけて、叫び返します。「他人だからどーだってぇのよ!」。ミサトの十字架のネックレスに焦点が移ります。そして立て続けに言います。「あんた、このままやめるつもり?」「今ココで何もしなかったら、私、許さないからね。一生あんたを許さないからね」。シンジの頬をつかむミサトの両手。ミサトを見つめるシンジの丸い目。「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気づき、後悔する。私はその繰り返しだった。ヌカ喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でも、そのたびに前に進めた気がする」。少なくともミサト自身にとっては、これでよしと何かやっても後で間違いと発覚して後悔するといった「ヌカ喜びと自己嫌悪を重ねるだけ」の生き方でありました。でも、「でも、そのたびに前に進めた気がする」といいます。よれでよし、としているわけです。失敗や後悔をおそれずにやりなさい。私はそうやってきて、前にすすんでいったのよ、とシンジに語りかけているのです。
 ミサトは続けて語り、シンジに十字架のネックレスを手渡すこととなります。そう、ここで十字架のシンジへの継承が行われるわけであります。ここの部分のミサトの言葉は非常に重要だと考えます。
 ミサトはこういうのです。

いい?シンジ君。もう一度エヴァに乗ってケリをつけなさい。エヴァに乗っていた自分に。何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか、今の自分の答えを見つけなさい。
そしてケリを付けたら、必ず戻ってくるのよ。
約束よ。

 まずミサトはシンジにエヴァに乗ることをうながします。エヴァに乗ってケリをつけろ、自分の答えを見つけろ、と言います。その答えに対する問題は「何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか」です。「ココ」というのは、私はずっとまえに書いたように(「エヴァ−「ココ」という「現実」の中で−」)、他者との関係の場を指すと考えていいでしょう。ミサトと、アスカと、カヲルと、レイと、ゲンドウと・・・一緒の場である「ココ」になぜ来たのか、なぜゲンドウの手紙一つで来る気になったのか、また何度も逃げるチャンスはあったし逃げようともしたのに、なぜに「ココ」を離れなかったのか、何のために「ココ」に未だにいるのか。で、何でエヴァに乗っていたのか。その答えを見つけなさいと言います。
 ところが、その後すぐにミサトは「そしてケリを付けたら、必ず戻ってくるのよ」と言うのです。戻る、”戻ってくる”っていう言葉は、たとえば、「何があっても私のところへ戻ってきてね(うるうる)」とかいうなかば暴力的な言い回しで用いられますね。このセリフを言った人「私」をAさん、言われた人をBさんとしますと、BさんはAさんのもとに帰ってくることを要請されているわけです。BさんはAさんのいるところへ、Aさんという人のもとへ、帰ってこなければならないわけです。そっから考えると、ここでミサトはシンジにミサトのいるところへ帰ってこいと言っている。ミサトのいるところっていうのは、シンジとミサトとの関係の場であり、それはつまり「ココ」です。ミサトはシンジに決着をつけろと、「ココ」にいる答えを見つけろと言いつつも、「ココ」に帰ってくるようにと言っているわけです。そして自分の十字架のネックレスをはずし、シンジに手渡して言います「約束よ」。「約束」、うーむ何という言葉でしょうか。いわゆるHゲーム「KANON」等をやるにつけても、この魅力的な言葉には思うところがいろいろとあるわけですが、まそれはいいとして、ミサトはシンジが帰ってくることを約束にするのです。ミサトがシンジに、帰ってくるように言う、約束するということは、つまり、ミサトはシンジを待っているということです。これはどういうことかっていうと、ミサトは「何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか」という問いへの答えの一つを「約束」という形でココに出しているのです。ミサトが待っているからこそココに来、ココにいるっていうふうに答えることができますでしょう。後に詳しく触れたいと思うのですが、十字架のネックレスがたゆとう中で、シンジがレイとカヲルとの語らいの中で「でも、僕はもう一度逢いたいと思った。そのときの気持ちは本当だと思うから」と言うシーンがあります。この「もう一度」と言うことのできる経験をこそ、ミサトはココでシンジに十字架と共に手渡すのです。「もう一度」ミサトに逢いたい、そう思うことができる後ろ盾たるミサトの言葉。ココに戻ってきなさい=待っているという「約束」の言葉が十字架のネックレスと共にシンジに送られます。
 そして、ミサトは「いってらっしゃい」とシンジを送り出すのですが、そこでシンジにキスをします。で、言います「大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう」。言うまでもなく、「大人のキス」の「続き」はむにゃむにゃでありまして、ミサトはシンジにそれをしようと言っています。ミサトはシンジへの「約束」をからだでもって改めて取り交わすわけです。
 しかしミサトは死にます。一人放り込まれたエレベータのシンジはおそらくそのことを知っている。そもそもミサトが残った場所は危険なところですし、シンジはミサトが血を流しているのを知っている。するってえと、その「約束」はどうなるのか。当人が死んでしまったら、「約束」はなくなるわけです。しかし、「約束」はなくなるだろうけれども、「約束」した記憶は、ミサトからもらった十字架のネックレスとともに残りましょう。はじめに、ミサトにとって十字架のネックレスは、父親という「他者に助けられた、守られた、愛された記憶」であると言いましたが、今、シンジにとっても十字架のネックレスは、ミサトという他者に助けられ、守られ、愛された記憶となったのであります。シンジはミサトによって、僕なんて死んでもいいんだ、ってところから助けられました。そして、狙撃から守られましたし、なによりも待つ形で遠くから支えられ、守られています。また最後のキス、そしてシンジをエレベータに送り出したときの顔、を見て取るべきでしょう。そこにありましたのはシンジへの愛にほかなりますまい。さらに強調しますならば、ミサトは、自分が死ぬまさにその時において、シンジに語りかけ、約束をしたのでした。まさにミサトはシンジを助け、守り、愛したのであり、十字架のネックレスとともにそれはシンジに届けられ、記憶となったのであります。

ミサトのこと−記憶の共体験−

 ということで、十字架を導きの糸としてここまでの劇場版エヴァを見てみますならば、一つにはミサトがシンジに、他者に助けられた、守られた、愛された記憶を与える物語として読めると思います。
 さらに、そのミサトがシンジに与えるところの記憶は、ミサトの記憶に他なりますまい。はじめに述べたミサトと父のやりとりと、シンジとミサトのやりとりはほぼ同じです。まあカプセルとエレベータ、南極の爆発と軍の進入+S2機関搭載型エヴァの攻撃、などといった状況の違いは当然ありますが、シンジをエレベータに押し込んだ後に、守るようにエレベータのドアのところに倒れ込むミサトと、脱出カプセルを抱きかかえるようにして倒れ込んだミサトの父とは同じように見えます。振り返りますと、ミサトはシンジに他人呼ばわりされて激怒しましたね。それもミサトが、今のミサトとシンジの状況と、ミサトの父とミサトの状況とを同様に見ていたが故の反応ととらえることができましょう。極端な言い方をしますならば、ここでミサトはミサトの父となっているわけです。ミサトがかつて自分の父にしてもらったことを、今度はシンジにしてあげているわけです。そのポイントとなりますのは、ミサトの死の直前、ペンペンにカーペットを取り替えておけばよかったなあと言った後の加持リョウジへの呼びかけです。血を大量に流しながらミサトは言います。「加持くん。私これでよかったわよね」。そう、ミサトは加持リョウジに呼びかけます。これはもちろん恋人たる加持への言葉に他ならないわけですが、TV版第15話「嘘と沈黙」について見たときにふれたように、ミサトは加持に自分の父親をも見ていたわけでして、加持への言葉は同時に父親への言葉ともなっているわけです。死の直前、ミサトは自らの父親に、あなたのやったことはこんな感じでしたか、私のふるまいはこれでよかったのでしょうかと、確認しているわけなのです。
 そこで改めてわかります。さきほどはミサトがシンジに記憶を与えている、などと言ったのですが、そうではない。そういう一方向の物語ではないでしょう。ミサトはシンジに記憶を与えることで、自分の父親に助けられた記憶を再び生き、逃げに逃げ続けていた「父親の呪縛」(ミサト)を正面切ってとらえるわけであります。他方で一見、その場で泣いているだけ、ミサトの話を聞いているだけのように見えるシンジも、そういうミサトを受け止めることによって、ミサトの話を聴くという行為でもって、ミサトの父親のとらえ直し作業に参加しています。この記憶の物語は、従いまして、シンジとミサト、二人の共同の行為であり、二人の共体験としてあるわけなのです。
 以上の記憶、それが以降の劇場版エヴァでは十字架のネックレスによって想起されつつ、シンジは「何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか」という問いに立ち向かっていくこととなります。

問いと答えと

 んが、最後にこれまでの論旨をまとめつつ一つ問題提起をいたします。ミサトはシンジに、自分が「ココ」にいる理由を問いつめろ、と言いつつも、ミサトがシンジを「ココ」で待っている、ということで、シンジが「ココ」にいる理由を指し示します。それはミサトがシンジに対して記憶の贈与という形で行っただけではなく、贈与の中でミサトは自分がかつて父親に贈与された記憶を逃げることなく正面からとらえなおし、シンジもミサトのその記憶の物語を聴くことによって、ミサトの記憶の物語に参入しているわけなので、いうなればここでミサトとシンジの記憶の分かち合い、共体験が起こっているのです。
 でも、単純に考えまして、シンジにきちんと考えさすんだったら、そんな答えみたいのはまったく出さずに、「何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか」という問題だけを提示して、ほったらかしにしておけばよかったはずです。なぜにミサトはシンジを待っていると言ったのでしょうか。一言で言うと、「何のためにココに来たのか、何のためにココにいるのか」っていう問題は、「他者に助けられた、守られた、愛された記憶」なしには成立しないからではないか、と思います。ま、しかし、この問題は本論の最後の最後で取り扱うとしまして、今しばらくはシンジの手に渡った後の十字架のネックレスの行方を、はたまた追いかけていくことといたしましょう。

続く。。。(たぶん^^;;)




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