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つばさの幸せ−試みとして−
(まる@「現代アニメ考」:1999年2月24日)
つばさに注目して

 カレカノにおきましては、9話から10話の「いじめ」の話、そして11話から13話の「幸せ」を巡る話におきまして、つばさを巡って興味深く物語が描かれました。以前に書いた「エヴァとカレカノ(1)(2)」では、宮沢を中心にまとめてみたこともあり、今回はつばさに注目してみたいと思います。主に10話「すべてはこれから」12話「仕合わせの在処」13話「幸せの主観」を参考にしていきます。

自分で満たしていく−パパと有馬−

 まず確認しましょう。12話の椿の話によると、つばさはいわゆる家族からは無縁でした。お母さんが亡くなっているからです。ゆえに「あいつは、ずーっと、満たされるってことが無かったんだと思う」。椿が言うには、そうした満たされなかった人は、自分で満たしていく戦いをしなくてはいけないわけです。
 つばさは具体的にはどうしていたか。まずは「パパ」でした。つばさが描かれるにあたっては、パパとの交流が一緒に描かれることが多いのです。パパがつばさを抱き上げているシーンが何遍も出てきましたね。つばさの心を満たしてくれているのは何よりもパパでありました。
 しかし、です。パパは仕事で忙しい人でした。パパが再婚に踏み切る理由の一つがつばさのことを心配してだったということ、つばさが家事全般が得意だということ、そして13話で家に帰ると一人で寂しかったことが描かれていることなどを考え合わせますに、パパとは離れていったんだと考えられましょう。椿もそのように言っています。パパの仕事が忙しくて、つばさは人に預けられて育っていったのでした。パパもつばさのことを愛しているわけですが、何せ時間がないのであります。満たされることのないつばさ。つばさはそこで「自分で満たしていく戦い」をしていくのであります。
 その対象は有馬でした。有馬こそつばさを満たしてくれるべき人でした。椿の話を受けた宮沢の気持ちにありましたが、つばさと有馬とは「同類」だからです。満たされることのないもの同士でありまして、つばさは有馬に惹かれていくのであります。つばさは何遍も有馬に果敢にアタックします。有馬はしかしそういうのに興味はないわけで、ならばとつばさは有馬と友達でもいい、近くにいれればいいと、頑張って一日13時間もの猛勉強をし、有馬と同じ高校に入学することになったのでした。
 ところが、です。有馬にはいきなり宮沢という「彼女」が出来てしまいます。もう大ショックでありました。ここからつばさには一つの刻印が押されることになります。それは喪失の経験という刻印でありました。

喪失の経験−呼びかけの存在−

 つばさを喪失の経験が彩ります。それによる寂しさが心の中を占めていきます。そこにパパが再婚の話を持ち込んでくるわけです。つばさは非常に強くパパの再婚に反対します。有馬に引き続いて大事な人を失うなんて嫌だからであります。12話の、みんなで布団で寝ているシーン。つばさは一人でつぶやくのでした、パパは自分のことを好きではなくなったのだと。パパの自分への愛の喪失を言います。そして起きていた宮沢に対して言います「男なんてみんな嫌い。やさしくするくせに、最後はいつも他の女の人を選んじゃうんだもん」。ここの「男」で指しているのは、第一にもちろん再婚をしようとするパパであります。そして第二には、宮沢に向かって言っていることから明らかなように、有馬を指しているわけです。パパと有馬との関係における喪失の経験があり、それによる寂しさがあるわけです。
 そして、喪失の経験は「男」だけでなく家族へも向かいます。宮沢一家+真秀がウノで楽しんでいるときにも「だめだ、今はうっとうしいとしか思えない」と言います。宮沢家にやってきたパパに対しても「新しい家族なんて要らないもの」。なおかつ「家に他人が上がりこむのがいや。勝手に台所をいじられるのがいや」とまで言います。他者に対する嫌悪もがあるわけでした。繰り返しになりますが、その根底にあるのは「パパが他の女の人と笑っているのがいや」と言っていることからわかりますように、パパを失うのがいや=喪失の経験=寂しさへの恐怖からでありました。
 そのように喪失の経験から他者の拒絶へと向かうつばさでありますが、良く見ますと拒絶の中にも他者を求める気持ちの現われを見ることが出来ます。先ほど挙げましたウノの時に一人でいるつばさのシーンです。楽しげな家族を見てつばさは言います。

 「この家族のそばにいて、こんなのつらくないのかな、有馬

 最後に有馬への呼びかけがあることにまず注目します。なぜ有馬へ呼びかけたのか。これは、つばさと有馬とは「同類」でありますから、同じ立場の有馬はどう思うんだろうなあということだととらえられます。ですがここで他の部分と今の発言とを対比させてみましょう。例えば先ほどの「家に他人が上がりこむのがいや」。つばさには他者への嫌悪が生まれているんでした。また13話のはじめにありますが「もういいや」「どうだっていいんだ」と他者への「あきらめ」までが生じているんでした。そういう気持ちが生じていつつも、つまり他者を嫌悪しあきらめているのに、なおかつウノの時のつばさは「有馬」へと呼びかけるのです。カンペキに他者を拒絶するならば「有馬」への呼びかけは出てきますまい。そうした呼びかけによって、つばさがいくばくかでも他者を求めているということがわかります。
 また順番的には前後しますが、同じところでつばさはこうも言っています。

 「だめだ今は。うっとうしいとしか思えない」

 「だめだ今は」と言っていることにも着目です。「今は」「うっとうしいとしか思えない」わけです。つばさにとっての「今」とは、喪失の経験という刻印を帯びた時であります。つまりは喪失の経験、失うことによる寂しさへの恐怖がある「今」だからこそ男とか家族とかの他者を「うっとうしい」と思うわけでありまして、カンペキに他者を拒絶するわけではないということがわかるのです。そして今述べた、他者に呼びかけているということとカンペキに拒絶してはいないということは、13話の後半へと続く「あきらめ」から「ほんとう」へのつばさの気持ちの切り替わりを準備しているわけなのでした。

一馬との出会い

 さて、宮沢家に逃げ込んでいたつばさでありましたが、結局は翌日家に帰ることにします。いたって家族の楽しさを見せつけられるだけですし、パパの気持ちも変わることがないと考えたからです。もうあきらめるしかない、もういいや、期待しても何もかなわないなら、はじめからもう何もいらない。もうどうだっていいどうだっていいんだ、と「あきらめ」とともにつばさは宮沢の家を出てパパの再婚も容認することにするのでした。
 そこで、つばさの前に再婚相手の裕美の息子の一馬が現われます。つばさは「もうどうだっていいこと」として一馬と接します。が、翌日、つばさを金で買おうとするオヤジを一馬が追い払ってくれます。そこで二人は再会するわけでした。
 つばさは一馬の話を聞きます。そしたらなんと一馬も一人っ子だったのでした。一馬は「ずっと兄弟が欲しいと思っていた」わけです。兄弟同士で「かまったりかまわれたりする関係って憧れで」あったのでした。なぜかというとつばさが心の中で考えたように「一人だったから」でありましょう。ここにおいてつばさと一馬との繋がりが見えてくるのです。お互いに一人で寂しかったものとしての繋がりが。
 先ほどウノのシーンでの発言で確認したつばさの”他者を求める気持ち”が反応します。自分の寂しいという呼びかけに答えてくれそうな他者が今ここに現われたわけですから。「じゃ」と言って去ろうとする一馬に対して「もっと話がしたい」と呼び止め、一馬の家に行くわけでありました。

「あきらめ」から「ほんとう」へ

 つばさは一馬の家に到着します。その家は団地(?)でありまして、しかもかなりひっちゃかめっちゃかでした。つばさは多少戸惑いの表情を浮かべて、思わず玄関先で立ち止まります。靴は投げ出されているし、台所は汚いし、洗濯物は脱いだのをすぐに洗ってしまうしまつでしたから。そこでつばさの頭に自宅の様子が浮かびます。山の手の静かな家の様子がありました。それが目の前の一馬の家と比べられます。そしてつばさは言います「帰りたかったどこか。胸を突く郷愁」と。
 一馬の家に「郷愁」を感じるわけです。「帰りたかったどこか」として。「帰りたかった」とはしかしどういうことでしょうか。今現在つばさが喪失の経験に彩られていること、父親に抱き上げられているシーンがしばしば挟まること、などと照らし合わせましょう。今の喪失状態から、昔の父親との関係のような状態に「帰りたかった」わけで、「郷愁」を感じているわけです。この、家に入ったところではしかしまだ「郷愁」に留まります。気持ちの切り替えは一馬と一緒にいて、会話を交わす中でおきることになります。
 つばさと一馬とは窓際で一緒に並んで座って、アイスを食べます。お互いのアイスを食べあったりもします。そうしているうちに一馬が言います「きみといるとおちつく」。それを受けて、つばさは当たり前だと言います。お互いに一人っ子でありまして、家に帰って一人という寂しさを知っているからです。そういう暮らしをずっとしてきたわけです。ゆえに「もう兄弟みたいなものだな」(一馬)「兄弟みたいなものだ」(つばさ)と確認されます。上に挙げました、例のオヤジを撃退した後の二人の会話に引き続き、ここで改めて自分の寂しいという呼びかけに答えてくれる他者が今ここに現われた、ということが確認されるのです。で、気持ちの切り替えがおこります。
 つばさは言います「パパの言っていることの意味が初めてわかった」と。で、

「わかりあえる人がそばにいる。そんな人が家で待っていてくれるなんて、なんてココロが安らぐんだろう。ほんとはパパさえいればそれで言いなんてうそ。今わかった。ほんとうは一人は寂しかった、寂しかったよ、お父さん」

と言うのでありました。「ほんとう」の気持ちに至ることになるのです。「あきらめ」から「ほんとう」への切り替わりがおきるのでありました。寂しかった、誰かにそばにいて欲しかったという「ほんとう」の気持ちこそがそこにはあるのでした。
 ちなみに、ここにおける「ほんとう」って言いますのは、有馬や宮沢が感じる「ほんとう」と同じだと思われます。つまり、それまでの気持ちがまるっきしうそになってしまう「本当」でなしに、”気持ちの強度”としての「ほんとう」です(拙稿「カレカノの「ほんとう」−気持ちの強度−」参照)。この点については最後に再び取り上げます。

「女」から「友達」へ

 その前に、ひとつ取り上げたいことがあります。それは「有馬」です。つばさは有馬のことがすごく好きだったのに、本稿で取り扱っている範囲でのカレカノでは有馬がほとんど出てきません。この点が難しいところです。
 が、他方で宮沢への言及がなされます。有馬の彼女である宮沢に、つばさは果敢にバトルを挑んでいたわけですが、つばさの気持ちが「あきらめ」から「ほんとう」へと移っていくにつれて、つばさの宮沢への気持ちが変わります。ここではそうしたつばさの宮沢への気持ちの変容を見たいと思います。
 つばさは宮沢をどうとらえているのか。先ほども挙げたところですが、12話でのみんなで寝ているシーンでつばさは宮沢に対して言うのでした。

「男なんてみんな嫌い。やさしくするくせに、最後はいつも他の女の人を選んじゃうんだもん」

宮沢=女という扱いです。かなり否定的な感じで言われるせりふでした。
 しかし、それが変わるのです。前項でまとめたところ以降の場面を見ましょう。一馬の母親である裕美が帰宅します。裕美は一馬に対して、なんでお前はこんな小汚い家に、つばさちゃんのような山の手のお嬢様を呼んでいるのか。洗濯物散らかしっぱなしだし、ふすまは開けたまんまだし、もおー、あんたはなんで私の邪魔ばっかりするの!わざと、わざとなのぉ!!...と言いつつ、一馬をひっぱたいたり、キャメルクラッチをかけたりします。そう、裕美は実はそういう豪快な女性でした。つばさの前では猫をかぶっていたわけです。
 つばさは媚を売っているような裕美が嫌いでした。そこからしますとここで裕美に対して怒るのが当然なわけです。ですがつばさは怒りませんでした。「がっかり、させちゃったかしら」と問う裕美に対して、怒るかわりにこう言うのです。

「ううん、私の友達に似ている」

つばさの近くに猫かぶり野郎は宮沢しかいないわけで、宮沢=友達としてとらえられていることがわかります。敵としての”女”から”友達”へと扱いが変わっています。いかようにこの変化が起きたのでしょうか。
 つばさにとって宮沢は敵でした。ゆえに嫌いでありました。しかしこれは一筋縄ではありません。つばさと宮沢との激しいバトル?が演じられた10話、最後で宮沢に対して有馬への気持ちを打ち明ける中でつばさは言います。

「あたしは宮沢になりたかった。(有馬に−筆者注)気づいて、振り向いて、世界一大切なものに思われたかった。(宮沢が)うらやましくてうらやましくて仕方なかったの!...いつもあたしは気づいてもらえない...(以下涙)」

 自分が好きだった有馬を奪った相手としてみますならば、宮沢は敵であります。が、有馬と繋がった相手としてみますならば、宮沢は憧れであります。さらにあやとつばさとのやりあい、

あや 「あんた、ほんとはけっこう宮沢さんのこと好きなんでしょ」
つばさ「へっ、ぜーんぜん!(顔赤らめる)」

を考えますに、やっぱりつばさは宮沢のことが好きなのです。そこに、「あきらめ」から「ほんとう」へというつばさの気持ちの変容を重ねます。一人でいようとして他人に対しては「あきらめ」ていた気持ちから、誰かと一緒にいるということ、そこにおける安らぎこそが「ほんとう」であるとする気持ちへの変容があったわけです。つばさは一馬と一緒にいることの喜び、つまり他者との「繋がりの喜び」を発見するに至ったのです。これはまさしく宮沢も有馬との関係において見つけた気持ちでありました(拙稿「エヴァとカレカノ−「他者観」と「関係」の相違(2)−」参照)。そう、ここにおいて、つばさと宮沢とは似たような「ほんとう」の気持ちにあるわけでして、つばさは宮沢を認めることが出来、友達と言うことが出来たのでした。そして宮沢と似ているような裕美をも許容したわけであります。
 つばさの宮沢への気持ちはそんなところなのですが、一歩先へ行って類推しましょう。つばさは宮沢を友達として見たわけです。となると、つばさは宮沢と有馬との関係についても了解したのだと思います。有馬と宮沢の「彼氏彼女」の関係を、「ほんとう」の気持ちで満たされている関係として。13話以降、つばさがペット化してしまっているので残念ながらそこんところはよくわからないのでありますが、つばさの有馬への気持ちはそうしてまあカタが付いたのだと思います。

試みとしての幸せ

 さあ、つばさは一馬と出会い、裕美も受け入れました。一馬と裕美とパパとつばさ、この4人による家族関係がスタートするわけです。
 ですが、つばさがはっきりとパパの再婚を認める発言「パパをよろしくね」をした後の画像に注目でありましょう。そこにはこうあります。

「さあ
 幸せになってみようか」

 ”幸せになる”ではなく、”幸せになってみる”なわけです。確実に「○○になる」んじゃなくて、「○○してみる」という形の”試み”なのです。これはつばさの「ほんとう」がなんであるのかを示す好材料でしょう。つばさには確固たる本当の幸せではなしに、今ここにおける一つの試みとしての「ほんとう」の幸せがあるのです。確実に変わってしまって、それまでがゼロになって幸せが全面に現われるという「本当」ではないのです。”試み”の態度こそがあるわけであって、それは”気持ちの強度”としての「ほんとう」に通じるわけです。
 が、ここにはもっと積極的な意味もあると思います。”試み”っていうのは、えーい、いくぞー!!っていうのがあってこそ成り立ちます。自分でそこに飛びこもうという意志があってこその”試み”です。ここでのつばさも、一人で「あきらめ」ていた状態から、一馬や裕美と一緒に住むという「ほんとう」の幸せへと、えーい、いくぞー!!と飛び込んでいこうとしているわけです。他者との関係へ積極的に入っていこうとする意志が”試み”として描かれているんだと思います。

おわりに

 こうしてみるとつばさは深いですね。まだまだわからないところがたくさんあります。でもとりあえずセリフやら話の流れやらを考えまして、つばさの気持ちの変遷を解釈してみました。自分でもいまいち上手くないなあと思う部分があったりするんですが、どうでしょうか。むろんここにまとめたのも一つの”試み”であります。今ここにおける私の一つの読みでありまして、みなさんのご意見を伺ったりして考え直していきたいと思っています。




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